さてさて、また別の席へ移動する間、なぜか客人たちの口数が減っている。それもそのはず。いよいよ裏千家御家元じきじきにいただくお濃茶の席へ入るのだ。
大きな大きな見事な枝ぶりの松を中心に整えられた屋上のお庭を臨むこれまた広い和室に壁に沿って招待客が座る。ご高齢の方やら袈裟をかけた僧侶をお先にと、促していたら私自身は和室の最後尾、出入り口の脇になってしまった。見回すと44歳の私でもまだ「お若いかた」と呼ばれそうなくらいなので、末席で上等だろう。
ここでは、桜餅がお菓子として振舞われた。前日の長野支部でも桜餅だったから、食べ方は心得ている。と思ったのが間違いだ。東京道場のものは一回り大きい上に中に味噌風味の餡がはさまれている。お懐紙はあるのに、もちを切る楊枝を忘れた。かぶりつくわけにいかないから、手を味噌餡でべたべたにしながらちぎっていただいた。
いつのまにか話し声も止んで50人ほどがしんとしていると、お家元が入室、静かに御点前が始まった。う~~ん。淀みなく、また一連の動作が流れるように進んでゆく。細かな一つ一つの動作に利休和尚考案から始まる工夫がぎっしり詰まっているそうである。席の配置のせいでお家元の背中しか見えなかった。ちんまり、それでもその存在感の重みが背中から感じられる。主役は私ではなく皆さんではないですか、そんなことを問い掛けられているような背中だ。
これだけの人数分をお家元お一人で点てるわけにはいかないから、水屋から大きな器に3人分ずつ点てられた濃茶が配られた。私の前の人がほとんど飲まなかったのだが、口をつけるととても苦いけれどじわりと深い味がしてとてもおいしい。ほとんど3人分あるお濃茶を飲み干してしまった。
お家元と、正客である高齢の和尚との対話を聞いているとまるで安土桃山時代に戻ったような時間の流れを感じた。お家元が50人の一人一人に目を移しながら御礼の目配せをされる。それぞれのお客人が次の間へと促されて立ち上がっているときに末席中の末席にいる私に「土屋さん、よう来てくれはりました」と声をかけていただいたことには、私もビックリだったが、周りの人もビックリしていた。お家元の人柄ともてなしの心を大変にありがたくいただいた。
大きな大きな見事な枝ぶりの松を中心に整えられた屋上のお庭を臨むこれまた広い和室に壁に沿って招待客が座る。ご高齢の方やら袈裟をかけた僧侶をお先にと、促していたら私自身は和室の最後尾、出入り口の脇になってしまった。見回すと44歳の私でもまだ「お若いかた」と呼ばれそうなくらいなので、末席で上等だろう。
ここでは、桜餅がお菓子として振舞われた。前日の長野支部でも桜餅だったから、食べ方は心得ている。と思ったのが間違いだ。東京道場のものは一回り大きい上に中に味噌風味の餡がはさまれている。お懐紙はあるのに、もちを切る楊枝を忘れた。かぶりつくわけにいかないから、手を味噌餡でべたべたにしながらちぎっていただいた。
いつのまにか話し声も止んで50人ほどがしんとしていると、お家元が入室、静かに御点前が始まった。う~~ん。淀みなく、また一連の動作が流れるように進んでゆく。細かな一つ一つの動作に利休和尚考案から始まる工夫がぎっしり詰まっているそうである。席の配置のせいでお家元の背中しか見えなかった。ちんまり、それでもその存在感の重みが背中から感じられる。主役は私ではなく皆さんではないですか、そんなことを問い掛けられているような背中だ。
これだけの人数分をお家元お一人で点てるわけにはいかないから、水屋から大きな器に3人分ずつ点てられた濃茶が配られた。私の前の人がほとんど飲まなかったのだが、口をつけるととても苦いけれどじわりと深い味がしてとてもおいしい。ほとんど3人分あるお濃茶を飲み干してしまった。
お家元と、正客である高齢の和尚との対話を聞いているとまるで安土桃山時代に戻ったような時間の流れを感じた。お家元が50人の一人一人に目を移しながら御礼の目配せをされる。それぞれのお客人が次の間へと促されて立ち上がっているときに末席中の末席にいる私に「土屋さん、よう来てくれはりました」と声をかけていただいたことには、私もビックリだったが、周りの人もビックリしていた。お家元の人柄ともてなしの心を大変にありがたくいただいた。