「 あなたは海から たくさんプレゼントを貰っている 」
あたりまえのように手に入ったものは
実は とても贅沢なものだったのかもしれない
世界三大漁場のひとつ 三陸海岸
此処に生まれ 育まれ
豊饒の海は私に たくさんの贈り物をくれた
漁家の人しか食べられないとされていた 摘んだばかりの海苔や海草
海水からこしらえた甘いお塩
稚貝やウニ アワビ 様々な新鮮なSeafood
大理石で造られたような流木のオブジェや
美しい砂 貝殻 ..... 琥珀
呼吸をラクにしてくれるオゾンや
肌を強くしてくれた潮風
ささくれ立ったココロをなだめてくれた蒼や
泪を包んでくれた波の音
朝日は 活きる気力をくれ
夕焼けは そのままでいいのだと癒してくれた
なんて満たされた境遇だろうと あらためて想い返している
私の大好きな 「 海からの贈りもの 」の中でリンドバーグは
「 海は 物欲しげな相手や貪欲なもの 焦っているものには何も与えてはくれない
砂を掘り返して宝を探すというやりかたは せっかちであり 欲張りであり さらには
自然への配慮のない行為である 」
そう言っている
まさに私の生きる境遇は 欲しなくとも与えられてきたものだった
手にしているものの価値にあらためて気づくということは
案外 難しいことなのかもしれない
価値観の真意を 見直す時期が訪れているのだと考えはじめている
観音さまに投げとばされた私の師には これまた最強の師がいらっしゃった
残念ながらその大師匠とは お逢いすることは叶わなかった私だけれど
娑婆の荒波にもまれ沈み込みそうになる時 決まって大師匠のあの笑顔を想う
「バカヤローどもだ 気にするな オレがついてる!」 と
そんな大好きな大師匠の 秘書だった方の書いたエッセイを此処に ........
S師は 他人が素敵なものを持っていると 必ず自分のものにしてしまう天才だった 私は何度も目撃した
某大臣と食事をしたとき 私も鞄持ちで同席した事がある
某大臣は フランス大使から貰ったばかりというデュポンのピカピカの金色のライターを持っていた S師は 煙草に火をつけてもらうたびに
「いいライターだ」 「いい音がする」 「炎の色まで上品や」 「おい 煙草の味まで違うぞ」
と褒めちぎり 帰る頃には そのデュポンは先生のポケットに入っていた
「先生 やりすぎではないでしょうか」 と私が言うと
「お布施じゃ お布施」 と答えたものだった
ある資産家の豪邸に招待されたことがある 茶室には素晴しい中国の古い掛軸がかかっていた
「漢詩の意味がチンプンカンプンなんです 先生教えてください」
と その家の主人が頼み込むと 博覧強記な師はたちどころに説明し
「詩には裏の意味がある これは在家の人間より仏門に携わる人間が持ったほうが活きる書や」
と付け加えた
数時間後 その掛軸はくるくると巻かれ 鞄持ちの私の手にあった
さて―――― 今度はベンツだ
四国の大将と言われたT氏の招待で S師は松山を訪れた
Tさんは空港まで迎えに来ていた ベンツに乗り込んだ瞬間 S師は宣うた
「いやぁT君 わしは何度も松山に来てるが ベンツから見る風景は また違うて見えるな 夏目漱石もベンツに乗っとったら 『坊ちゃん』の作風も変ってたやろな」
「・・・・・・」
「エンジンの音も アメリカのもんとは全然違うな 振動もええ T君 なんでヒットラーは連合軍に負けたんやろ」
「・・・・・」
「ベンツは運転する車やないな 後ろに乗らんと価値はわからんわ」
三日間 Tさんに会うたびにベンツ ベンツとまくし立て 帰る頃にはTさんから ちゃっかり運転手ごともらってしまっていた
そのベンツを S師は亡くなるまで大切にしていた
いつだったか――― (S師は月曜から金曜まで ひとりでH町のマンションで仕事をし 週末 奥さんのいるC県のお宅に帰るのが常だった) 泊りがけで先生のお宅に遊びに行くことになった
テレビの録画を終え 夜の八時ごろ東京を出発した 百キロ以上のスピードで先生のベンツは疾走していた
すると若者が運転するフェアレディが われわれのベンツをすっと抜いていった
そのときだった
S師のいたずらっぽいチャーミングな眼光が 暗闇のなかでキラリと光った
「おい K 抜け!」
「はい!」
ベンツはスピードを上げ あっという間にフェアレディを抜き返した
すると ステッキの上にアゴを載せながら 先生はいかにもうれしそうに フェアレディを振り返りながら吐き捨てた
「バーーカッ!!」
「先生 こんなにスピード出すと捕まりますよ」
と私が心配して言った
「オレは国会議員だよ 祖国のために急用ができて フルスピードを出すことも あると違うんか」
「なるほど恐れ入りました」
何度読んでも おかしくて吹き出してしまう
こんなエピソードを読んでいると なんだか全然お坊さんらしくないなぁと思うけれど 実は天台宗の大僧正で
戸津説法の講師にまで選ばれた程のお方だった
その戸津説法の結願の日のお話しでは
「天台教学も時代と共に歩み続け 変化していかなければならない」とし
「密教を独立させ 顕教の中には大般涅槃経を入れるという構想が 教学を再興させる方法ではないか」というユニークな見解を示された そして
「講師などと堅苦しくするんではなく 褌一つでみなさんと大般涅槃経を語れるときが来るように・・・・・」
そう 結ばれたのだという
こうして数々の武勇伝を知ると 大層 がさつで乱暴そうなイメージのS大師匠だけれど 師はあえてこう仰っている
「本当は実に上品な方で 心の繊細な この上なく優しいお方なのである」 と
私も 心からそう思う
御縁を頂けたことは この上ない誇りである
大師匠とは逢いたかったけれど フンドシ姿は見たくなかったかもw( /ω)ハズカチッ!!!
ランキング参加中!クリックしていただくと励みになります☆
どれほどひたむきに 静謐に活きようと
振り払ってもなお 忍び寄る過去の影に赦されなかった
そんな者が 活きられる道は
あらゆる欲望から離れ
忍びに忍んで息づくこと
それが 皆の為になると 考えた
ひたすらに歩いた果て
気がつくと手中には
残像しか残っていなかったけれど
それでも活きて 誰かの為に 出来たことがあるとすれば
蔑みを含んだ 憐れみの眼差しの陰に見える優越感を
与えることが出来たことかもしれない ...............
己の幸せは
誰かの泪の上に成り立つものかもしれぬと
慮るココロを授かったまま 産まれ出てしまった少女には
この世はあまりにも 哀しく
間違った世界だったかもしれないのに
クリックしていただくと 励みになります☆ (携帯からもclickできるようになりました)
'92 春
彼が sayonara も云わずに 姿を消してしまってから
今日まで私は
彼の曲はもちろん
彼に関する番組なども 視ていない
一切 封印してきた
今日 その封印を解こうと思う
私が初めて聴いた曲 「 15の夜 」
鳥肌がたつほどの衝撃だったことを
今でも 憶えている
その頃の尾崎は まだ 全然メジャーではなくて
私のまわりにも知っている人はいなかった
私は テープが擦り切れるほど 何度も彼のアルバムを聴いた
けれど彼のfanであることは 誰にも話さなかった
唯一 知っていたのは
尾崎と同い年だった兄貴
そして 愛していた彼だけだった
その頃の私も そして 封印してから今日までも
誰にも話しては いない
それは 多分
彼の創る曲が
あまりに ジブンと重なる部分が多く
重くて深い 胸のうち そのものだからだったと
想う
カリスマと 称賛を浴びた彼が
日を追う毎に憔悴し
壊れていく姿を目の当たりにしながら
見守ることしか 出来なかった現実
そして
真実を誰にも伝えないまま
ひとり寂しく 逝ってしまった こと
それは
私にとっても
とても深い闇のまま
ココロに陰を落としているからだと想う
尾崎の曲には
想い入れの深いものが多くて
一瞬で あの頃の私に戻る .....
いや あの頃と 何も変っていない
ジブンを確認できてしまう
・・・・・・・・・・・・・・
色々探していると Live映像や PV などの数の多さに驚く
デビュー当初から 見て来た人たちにはわかるであろう
再生回数の多い 美しい映像の中にあって
思わず眼を逸らしてしまうほど
痛々しい姿の 尾崎
とても ..... 哀しい
今年は 17 回忌
そして 今日は 彼の Birthday
元気でいれば 43歳 ...... だった
クリックしていただくと 励みになります☆