大地震 大津波が起きてから
今日で2週間経ちました
被災地で暮らす私にとっては
何かとても長い長い2週間だったように感じます
各地で続く度重なる余震や放射能に対する不安
電力不足や買占めなどによる物資不足
そして風評被害
懸念される問題が山積し
前進しているのか後退しているのか惑うほどで
何を信用してよいのか混乱する日々が続いています
皆さんのご尽力により被災地は
僅かずつながら復興への道へと進み始めていますが
沿岸地方ではいまだライフラインの復旧は進んでおらず
物資や食料も充分ではありません
津波による瓦礫などで道路が寸断されてしまっているため
孤立している集落が数多くあると思われています
医療体制もなかなか万全とはいかず
死亡者が日に日に増えて来ています
国による支援が追いついていないように
皆が強く感じています
治安も悪く
強盗や窃盗 詐欺 略奪 レイプ .......
被害は少なくありません
我が家では地震後 車への給油を自粛していますが
GSでは連日 ガソリンを求める人々で長蛇の列ができて
緊急車両の通行の妨げになったりもしているようです
物資の流通に関しても 一部の心ない人達の行いによるしわ寄せが
目に見え始めているのも事実です
あらたに昨日あたりから
ミネラルウォーターが品薄になってきてしまいました
残念なことです
その一方で
被害が少なかった地域では
何か力になれる事がないだろうかと
歯がゆい思いをしている人が少なくないようですが
具体的 直接的な援助ができなくとも
いずれ必ず 必要とされる時がくるはずです
今は 自分の足元をしっかりみつめて
正しい目と聡明さを持って行動したいものです
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『考えない練習』などで有名な 月読寺住職の小池龍照師が
ご自身のHPで今回の震災に対するmessageを出してくださっています
私は信徒ではありませんが 共感する部分がありましたので
抜粋して掲載させて頂きます
合掌
「災害にあうこと」=「嘆かわしいこと」。このような計算式が、現在の日本をすっぽりと覆いつくしているように思われます。しかし実際はよくよく見つめてみますと、「災害にあうという事実そのもの」と「それを頭の中で嘆かわしいものとして情報加工すること」との間には、厳然たる差があるのです。
私たちが何らかの精神的ダメージを受けるとき、それは必ずと申してもよいほど最初に受けた被害に対して、心が「とても自分をおびやかす、よくないものだ」と情報加工することによって成り立っています。最初の被害に対して、心の中でおこなう否定的感情によって、それが強烈な二次被害の化け物となって私たちをおびやかし、苦しめるのです。最初の被害状況が同じレベルだとしても、この否定的感情による二次被害を起こす度合いが大きいほど、私たちは致命的な状況へと追い込まれてしまいます。
誤解を恐れずに率直に申しますと、あいにく今の日本社会にはこの二次被害を(無意識的にですけれども)奨励するかのような空気が充満しているように思われます。もっと、悲しむべきだ、暗い気分で「自粛」すべきだ、と。
素直に喜ぶことや楽しむことを「不謹慎」とみなし「自粛」を求めることが暗黙の了解としてこの国を支配しているように見出されます。その背景として「私たちは悲しくて暗い気持ちでいなければならない、そうでないと薄情だ」といったような前提があるように推察されます。
私たちは弱い生き物ですから、困った人へのせっかくの善意にしても、こうした二次被害に駆られながらおこなうと必ずしもよい結果をもたらしません。焦った気持ちで冷静さを欠いてしまうと、的外れな善意の押しつけをする偽善者になってしまうこともあり得るでしょう。
感情的になるあまりに、自分の善意に同調しない人々に対して怒りがわいてきたりするようでしたら、それもまた心の二次災害にやられているのです。あるいは、誰かが楽しんでいるのを「自粛すべきだ」と罵りたくなるとき、そこには死者を大事にすることを名目にして、精神的荒廃が生じているのです。
ですから何がしかの善意に身を乗り出すにしても、まずは心の混乱であるところの二次被害をじっくり点検して静めてから、おこないたいものです。現在のような異常事態だから善意がわいてくる、という一時的なものでも、慈悲の出発点としては良いでしょう。しかしその一時的な善意を慈悲へと拡張していこうとするなら、平常時からごくふつうの身近な人々や動物に対して優しくなれるように育てあげていきたいものです
いざ災難に直撃されてしまったときは心の二次被害を起こさないように、あくまでも自分の心を見張っているということ。そうして二次被害を防いだうえで、余裕があったら、慈悲の心をつくる練習に取り組みたいものです。
もちろん、小さな子供をはじめとして、あまりの事態に茫然としてひたすら悲しみに暮れてしまう方々も、たくさんおられることでしょう。そういった方々に対しては、大人やまわりの余裕のある人々が、慈悲の心で寄り添って差し上げることが苦しみを少しなりとも緩和することにつながります。
つまりありのままの事実を見つめて、心の反応を静めるというのは、決して薄情になることを推奨しているわけではありません。ただ、慈悲の背景には必ず、冷静さ(=「捨」)が必要なのです。実際に被害にあって苦しんでいる方々に寄り添おうとするにしても、自分勝手に感情的になり騒ぎ立てても、必ずしもうまくいきません。自分の心を静めて温かい慈悲の心持をつくることによってはじめて、相手の苦しみに耳を傾けることもできるのですから。
現在のこの国の暗い雰囲気から読み取れる、これから先への希望を記しておこうと思います。先に述べた「自粛」をしたくなる無意識的風潮はデメリットをももたらす他方では、その風潮の中には、いくばくかの真理の要素も混ざっているように、見てとれるようにも思われます。
それは、こういった重大事態に接すると世の中の娯楽や芸術を楽しんだりする気持ちになれなくなるのなら、それらは「今は」やってられないような、必要ないものだということです、・・・が、それのみならず、それを突きつめますと別に「今だけ」でなくて、いつだって娯楽や芸術や過剰な経済的繁栄といった余剰物は、「そもそもやってられない、精神的な幸福にとってそもそも必要ない、なくても良い」ものだということを、人間の追いつめられた直感が教えてくれている、とも申せるかもしれません。
そういう意味ではこの「自粛」の中にある最良の精神をすくいあげるなら、私たちの文明のあり方そのものを問い返して、今回の被害をきっかけに今までとは別の方向へ再生してゆける力がそこにはこもっているとも思われます。その精神を汲みあげてあげない限り、一カ月か二カ月かの無自覚的「自粛」の果てに、なんとなく互いの監視がゆるむ中で、ふたたび狂気のような娯楽と経済闘争の騒ぎが、復活するだけのことでしょう。
いたずらに暗い気分に沈みこまず、こうして痛い学びを汲み上げてこれから先を見据えてゆくことによってこそ、今回の一連の出来事から最良の教訓を得ることになると思うのです。