Penny Lane Music

福岡市中央区赤坂
ピアノ・ボーカル・ギターなど大人のためのポピュラー音楽教室

いずみたくメロディ

2010-09-04 16:47:00 | 音楽
 林先生が、またエピソードをコメントしてくださっています。
一昨日の夏ライブの記事と、8月25日の鬼太郎の記事
そこで作曲家いずみたくさんは林先生の学校の先輩にあたるというお話など、エピソードを
書いてくださいました。どうぞ、チェックしてみてくださいね。

 というわけで、そのいずみたくさんのこと、私も子供の時、とてもすきな作曲家だったので。


 この名前を最初に意識したのはドラマの主題歌「太陽がくれた季節」でした。
「飛び出せ青春」の、再放送でした。
実際の放送は72年から73年。
うーん、小学校2年生・・・これはまだ理解できる年には達してませんでしたので^_^;

 小学校の高学年か・・・中学生のころ、夕方の再放送。この曲が大好きでした。
そのあとの「われら青春」の主題歌「帰らざる日のために」はもっと好きでした。
・・・ふーん、いずみたくっていうひとが作曲したんだ・・・
と思いながら、歌謡曲の本なんかでみつけてピアノでメロディを弾いていた記憶があります。

 ではまず、その2曲。

       飛び出せ青春「太陽がくれた季節」

  ドラマはこっちが好きだったのでこの顔ぶれ、泣けてきます。


      われら青春「帰らざる日々」

 これはドラマ映像より、この歌詞。これがね、きっと思春期のあたくしの胸にぐぐぐっと
入り込んできたのだと思うのです。懐かしい懐かしい歌です。

 この2曲で、私はすっかり「いずみたくメロディ」のファンになってしまったのです。
それからいつも作曲者の名前を見るようになりました。小さいころ大好きだった曲、たとえば
由紀さおり「夜明けのスキャット」、ピンキーの「恋の季節」とかね^_^;、もそうだと知りました。

 そして小学校でよく歌っていた「てのひらを太陽に」も・・・。

 由紀さおりさん姉妹のアルバムの中に「いずみたくを歌う」というのがあります。
前にあげた曲も含めて、見上げてごらん夜の星を、ベッドで煙草を吸わないで、女ひとり・・・などなど。
懐かしくて名曲ばかりです。

 1992年、62歳。早い旅立ちでした。今でも多くの方々に親しまれている曲をたくさん残された
偉大なる作曲家です。

 不思議な縁、今、てのひらを太陽にの作詞のやなせ先生のパーティーで、よくみんなで最後に
「てのひら・・」を歌います。ことのほか、懐かしくいろいろ思いながら・・・・
あのころ、まさか、こうしてやなせ先生と一緒に歌うなんて思いもしなかった・・・・って(^_^;)

 林先生のお話から昔話になりました。

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2 コメント

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砂の器 (のび太)
2010-09-06 17:23:38
74年松竹作品ですね「砂の器」
これ、学生の時にリバイバルで見ました。音楽が印象的でとてもよく覚えています。内容は本当に重くて・・・加藤嘉、加藤剛、緒方拳、重い映画でした^_^;
でも最後の風景と音楽が素晴らしかった。
先生のお仕事だったのですね。

いつもいろんなお話をありがとうございます。
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ほんとうに素敵な作曲家でした (林 知行)
2010-09-06 03:01:47
私が音楽を志し最初に会った偉大な作曲家が管野光亮先生でした。そしえヤマハ合歓の郷にあったネム音楽院を中退して東京へ、先生のもとで写譜屋兼ゴーストアレンジャーとして修業時代に入ります。当時もそうでしたが、お金を払って学校で学べるものはコケの生えた様な古いものと相場が決まっておりました。今はもっとひどいかもしれません。サイクルは早くなりましたが、大学で教え始める頃には時代遅れです。プロになるには学校では無く、現場に居ること、それも売れっ子のプロに限りなく近い現場がポイントです。だからザ・ドリフターズのぼうや(誰だかわかるかな?)が遂にメンバーに採用され、グループ全員を凌駕する様なタレントになったりしました。
私も管野先生の徒弟奉公現場で学びました。これと並行してヤマハのネム音楽院というか先生もそこに居たから芥川さんから松竹映画「砂の器」の仕事をもらえる訳で、とにかくそんな関係者から私にもプロの演奏家の仕事が入り始めます。上條恒彦、チェリッシュ、坂本九、加山雄三、倍賞千恵子、加川良、中村雅俊、加藤登紀子、なんだかわけのわからない関連でしょうが、とにかく仕事の世界に突入。この様なステージバック(当時はバンドマンですが)の傍ら、師匠の仕事(テレビドラマの仕事も入り始め「白い滑走路」とか・・)と言えば東京赤坂(そちらも福岡博多の同名地名ですね)の旅館に缶詰め状態になりながら徹夜で師匠のアレンジの写譜しながら師匠の代わりにアレンジして行くのです。そんな中に中村雅俊の仕事があり、「ふれあい」は本当に妙に記憶に残りました。これより十年くらい後、母校の同窓会関連のサークル活動にはまりました。この趣味の世界は記録整備が完了したらブログに書いてリンク先を示しますが、そこで、いずみたくさんご本人にお会いします。
日本テレビの名ディレクターで「笑点」を始めた方がクラスメイトだったのです。そのOさんが「林君、クラスメイトのいずみたく(これは芸名だから本名は違います今泉さんです)に紹介したいな。君も音楽家として大成すると良いね!」って。先輩達のクラス会に年若い後輩、駆け出しの音楽家が混ぜてもらえた。後輩は感激しましたが、先輩はあまり覚えていないまま他界。何か仕事にプラスは無かった。そこまであざとくできないのが母校の校風です。でも公言できない秘密の数々(書けない)、それなりの苦悩、本人から生の声を聞けたのでした。貴重な時でした。
これから折りにふれ、そんな話を書いたり、ドリフターズでは出版できない(作詞の永六輔が替え歌に頑強に抵抗)「ビバノン音頭」を諦め、原曲のボニージャックスの「いい湯だな」を出版(できるのかな?)する様なことかなって思っています。
いずみたくの名曲。それは由紀さおりの「夜明けのスキャット」であり、ピンキーとキラーズの「恋の季節」であり、後にわかりました。当時は母校の先輩の名作なんて知りませんでした。たまたま先輩でした。
母校は各種才能を発揮できる自由な校風な学校です。各種の才能が育ちます。そのはちゃめちゃさは面白いのですが、私も負けてはおれません。政権奪取したいと、思います!
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