巻頭写真 : 『Palais Galiera/Musée de la Mode de la Ville de Paris』
前回に引き続き「シャネル回顧展」中編です
1920年代に織物生産技術が進歩し
フランスの織物メーカーが新趣向の布地の生産を始めた
シャネルはそれらの業者と連携して
女性モードに新素材で新しいラインを作り出して行った
『コート』1918年
黒シルク・サテン アイヴォリーの絹糸でポアン・アヴァンセ刺繍
茶の毛皮
『コート』1922年
クレープ地に多色絹糸と金糸のポアン・ド・シャテーニュ刺繍
現代的な毛皮
左『ドレス』1922年から1923年
黒のシルク・クレープ 黒玉ビーズの刺繍
右『ドレス』1922年
黒のシルク・シフォン 黒玉ビーズの刺繍
『ドレス』1923年
加工した黒のウールと銀糸 黒のポンジー(絹紬)
左『イヴニング・ドレス』1929年から30年秋冬
ブルーのシルク・テュール ファンタジックなブルーのスパークリング刺繍
右『イヴニング・ドレス』1938年から39年秋冬
黒のシルク・テュール 黒のスパンコール
『アンサンブル』1937年から38年秋冬
クロビーズで総刺繍したシルク・テュール アイヴォリーのシルク・モスリン
アイヴォリーと真珠色のシルク・レース
アメリカのモード誌「ヴォーグ」編集長『ダイアナ・ヴリーランド』が着用したもの
右『イヴンング・ドレス』1938年から1939年秋冬
ミッドナイト・ブルーのシルク・テュール 金糸の刺繍
左『イヴニング・ドレス』1939年
ミッドナイトブルーのシルク・テュール ミッドナイト・ブルーとシルバーの菅ビーズ刺繍
左『ケープ』1925年春夏
黒のシルク・クレープ 雄鶏の羽
右『ケープ』1925年春夏
アイヴォリーのシルク・クレープ 雄鶏の羽
左『イヴニング・ドレス』1927年春夏
アイヴォリーのシルクのクレープとフリンジ
右『イヴニング・ドレス』1926年から1927年秋冬
ミッドナイト・ブルーのクレープ・ジョーゼット シルクのフリンジ
左『イヴニング・ドレス』1921年
ネイヴィ・ブルーのクレープ・ド・シーン 同系色のスパンコールとキラキラの刺繍
ミッドナイト・ブルーのポンジー(絹紬) ロイヤル・ブルーのクレープ・ジョーゼット
中『ショート・イヴニング・ドレス』1927年から29年秋冬
ブルーのシルク・クレープにブルーの玉ビーズ刺繍
右『ショート・イヴニング・ドレス』1920年代
ガブリエル・シャネルは
1925年には時のウエストミンスター公爵に招かれて
チェルシーのエクレストンニアる公爵の城『Eaton Hall イートン・ホール』
での夜会に参加した
また
「マルセル・アシャー」の劇団とコラボして
「THéâtre du gymnasse ジムナス劇場」での『アダム』の公園に
衣装製作で参画した
「アダムの舞台衣装」1930年11月
ところで
ここまで「戦前」「戦中」の時代における「ガブリエル・シャネル」の
創造の軌跡を辿ってきたが
その時代におけるもう一つの大きな発明を欠かすわけにはいかない
そう
香水であります。
『Parfum Chanel No.5』
世界中で香水の代名詞のように語られる
『シャネルの5番』は1921年に登場した
ココはそれまでと全く違うものにこだわった
それまで
ジャスミンやラヴェンダーやバラや乳香やジャコウなど
ある単体の動植物の香りとして使われてきた身元の分かる「フレグランス」というものではなく
彼女は構築された「パッファン」という概念での新しい香りを求めた
そのココの求めに応じて『エルネスト・ボー」という職人が
80種を超える香りの元を調合して
新しい概念の「パッファン 香水」を作り上げた
イランイランやグラースのラヴェンダーと五月のバラなど
希少な花々の香りに
微妙な量の森の香りやスパイスのアクセントをつけて調合された
その後業界全体で
抽出された香りのエッセンスを10〜15%含むものを「パッファン 香水」
同10〜15%のものを「オー・ド・パッファン」
同8〜10%のものを「オー・ド・トワレット」
と法的な区分基準で
エッセンス分が薄く割安なものも作られるようになり
大小さまざまなクリスタル・ポットで商品化され続け
「No.5」は世界で最も数多く販売された香水ということになっている
「ええ、ご存知の通り、たくさんのいろんな質問をうけますわ」
「例えば "夜は何を着て寝まれるんですか"
"パジャマの上だけとか?"
"パジャマの下だけとか?"
"それともネグリジェですか?"
"それならどんな種類の?"
なんてね。
それで答えたんです "シャネルの5番よ" って
だってそれ事実なんですもの」
笑いが起こる
「それでね、私は別に裸で寝るとは言ってませんのよ」
「お解り?」
「でもそれが真実なんですもの」
(マリリン・モンロー)
ココ本人の中で
「香水」は見えない「アクセサリー」という感覚であった
さらに
「ジュエリー」も20年代から始まる
彼女にとってのジュエリーは衣服自体の要素の一部で
希少宝石とフェイク(ファンタジー・ジュエリー)の間に境界線を引かず
両者を同時に使って
付ける場所も「袖口のカフス部分」や「袖」「肩」あるいは「帽子」と
それまでのジュエリーの扱い方の概念を変えた
『ネックレス』1920年代
中央」のどの位置から下に一列と
上から二列目の中央の左右とだけライオンが吠えている
『(上)ネックレス と(下)ブレストプレート』1925年
『(中央)ネックレス と (左右)イヤリング』1928年
『(左)ネックレス (中)ネックレス 』1930年
『(右)ネックレス』1939年から38年
『(左)ネックレス』1937年
(中)ブレスレット (右)ブレスレット』1939年
『(左・上下)イヤリング (右上)ネックレス』1938年
『(左上)ブレスレット (右上)ブレスレット/クリップ』1930年から39年
『(左下)ブローチ (右下)ブローチ』1930年から39年
ここまで
戦前の時代を生きた「ガブリエル(ココ)・シャネル」の軌跡を辿ってきた
1939年からに欧州大戦がはじまり
モードの世界はひたすら息をひそめるのみとなった
ココがモードの表舞台に復活するのは
対戦終了5年後の19454年
その年に女性モード週刊誌『ELLE』がいち早くシャネルの後押しを始める
1957年8月10日号 「シャネル 新しいシャネル・モードを発表」
「エル」という雑誌は終戦の翌年1945年に「エレーヌ・ゴードン=ラザレフ」
によって創刊
単なるモード雑誌と一線を画し
他社と違うリベラルな筆使いで女性報道誌としての地位を獲得し
女性の自由な社会進出を後押ししており
シャネルが復活すると同時に定期的にシャネルの動向を報道した
『エル 1947年8月12日号』 「シャネル 新たなシャネル・モードを再発信」
『エル 1957年10月28日号』「シャネルの新しいシャネル流のテクニック」
『エル 1961年2月24日号』「正式発表前に61年春物新作を発表」
『エル 1961年8月25日号』「シャネルの勝利」
『エル 1958年12月1日号』「今後エルの全号でシャネルのテーラード・スーツの型紙無料提供」
エルは(シャネル本人の暗黙の協力で)
シャネルのスーツの型紙を無料で1点ずつ掲載すると発表
それらのモデルは単純に「プティ・シャネル」と名付けられた
『エル1959年12月4日号』「シャネルの無料型紙の秘密」
『エル 1961年2月17日号』「シャネルのエル/春の新作テーラード」
『エル 1963年2月15日号』「シャネル」
『エル 1969年9月29日号』「魅力的なプティ・シャネル 本物の宝石」
『エル 1970年3月2日号』「シャネルの眩いホワイト」
CASSANDRE 作『Portrait de Gabrielle Chanel』 1930年 油彩
では今回はここまでにして
次回「シャネル回顧展 最終回」で
皆様方のどなたもご存知の
戦後のシャネルの全貌を辿ってみましょう
お楽しみに
= = = = = = = = = = = = =
【お願い】
皆様方の「読後感」「読前感」を是非お寄せください
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