行ってみませんか... こんな 素敵な世界へ

好奇心旺盛な長年の体験で、行って、見て、食べて、泊まった素敵な世界を、皆んなにちょっぴりお裾分け...

パリで美術三昧 <レオナルド・ダ・ヴィンチ> を "没500年記念特別展  ルーブル美術館2019年秋" で偲ぶ 

2021-02-04 00:22:11 | 素晴らしき世界/パリ/美術
『レオナルド・ダ・ヴィンチ肖像画』
最も忠実な弟子であった フランチェスコ・メルジ画 1515〜18


2019年11月から2020年1月までの3ヶ月間
パリのルーブル美術館で
『レオナルド・ダ・ヴィンチ特別展』が行われた



ダ・ヴィンチの没500年という区切りの良い年に
最後の3年をフランスで過ごし1519年にフランスで没した『ダ・ヴィンチ』の
特別回顧展をルーブルが企画したわけです

今回はマルチ・プレーヤーの大天才『レオナルド・ダ・ヴィンチ』
の軌跡を辿ってみよう


もともと彼は
1452年に中部イタリアはトスカーナの「ヴィンチ村」で生まれた
幼少時代に母親と離れ離れになった
という事以外は
あまり詳しくはわかっていないらしい
1460年代には
著名な彫刻家にして画家であった「アンドレア・デル・ヴェロッキオ」の
アトリエで修行を始めた様だ

『イエスと聖トマス 又は 聖トマスの疑い』ヴェロッキオ 1467〜1483 
フィレンツェ オルサンミケーレ教会美術館所蔵

特別展の最初の部屋の中央に
このヴェロッキオのブロンズの大作が置かれていた

復活したイエスを本当にイエスだと信じないトマスに
イエスが自分の胸の槍の傷跡を触らせてトマスに信じさせた
という逸話

主を失って絶望の淵にある弟子の苦悩
信じられない「復活」への疑い
真実に触れた驚愕と喜び
などの
暗い面と光の交錯を実に見事に表している

このヴロンズ像の背後を取り囲むようにして
二人の衣の襞を
部分ごとに試作したエテュードのデッサンが
ベロッキオ自身の物とレオナルドの物と10点ほど展示されていた


『スキピオ像』ヴェロッキオ 1464〜1468 ルーヴル所蔵

まだ共和国であったローマの将軍で
カルタゴのハンニバル率いる大軍を撃破した若き英雄の
この大理石のレリーフの表情を
ダ・ヴィンチは熱心に学んだ


そのダ・ヴィンチの決定的な転換点になったのが次の作品であった
オリジナルはフィレンツェにあり貸してもらえなかったので
研究用赤外線写真での展示


『イエスの洗礼』ヴェロッキオ 1468〜78 ピエトレ・ドゥーエ光学資料館提供

洗礼者ヨハネから洗礼を受けるイエスの傍に
天使を二人書き込んであるが
そのうちの一人の天使を
親方ヴェロッキオは若き弟子レオナルドに任せた

部分

どちらが「ダ・ヴィンチ」の手になると思いますか

そう
左の天使です


このダヴィウンチが仕上げた天使を見た親方は
「こんな天使を書く画家がいる以上私は画家は辞める」
と絵筆を折り
以後ヴェロッキオは彫刻家として生きて行く決心をした
という逸話が残っている

その後彼は急速に頭角を現して行くことになる

そして
当時の絵画に新境地を開いた作品が
これ

『受胎告知』ダ・ヴィンチ 1470〜74  赤外線写真提供 ピエトレ・ドゥーエ光学資料館

砂漠と礫漠と灼熱の太陽とが支配する
パレスティナで生まれたキリスト教にとって
『天国』の概念は
緑に囲まれ花が咲き誇り果実が実り
鳥のさえずりと蜜をもたらすミツバチの羽音
そして「貴重な」水のせせらぐ音
であり
それらは壁に囲まれた閉鎖空間の「秘密の楽園」として表現されてきた
絵画で『jardin Clos 閉ざされた庭園』と呼ばれる
大天使ガブリエルによるマリアへの髪の子を宿した告知は
ジャルダン・クロで描かれてきた

ところがこの作品は
壁がなく外の世界にそのまま通じており
受胎告知も「密室の出来事」ではなく白日のもとにななされている
読書中いきなり現れた大天使に固まって
右手は読んでいた書物のページを抑えつつ
しかし左手ではすでに
将来の「神の御子の母」として皆を祝福するポーズを取っている
そのマリアの
驚きと確信と毅然とした表情は
それまでのどの「受胎告知」とも違っている


オリジナル フィレンツエ「ウフィッチ美術館」所蔵

この作品の広範な影響の端的な例が一点展示されていた

『受胎告知』ロレンツォ・ディ・クレディ 1480〜85 ルーヴル所蔵

ついでなので
今回の特別展には関係ないが
影響の例をもう一点

『受胎告知』 ティツィアーノ 1535〜40 ヴェネティア サン・ロッコ教会所蔵

あのヴェネティアの
「ヴェロネーゼ」「ティントレット」と並んで
神と称された三大画家ティツィアーノすらここまで影響を受けている


そして
決定的な役割を果たしたのが次の作品

『東方三博士の来訪』ダ・ヴィンチ 1480〜82 未完
赤外線写真 ピエトレ・ドゥーエ光学資料館提供

この作品は結局未完に終わったが
初めて「レオナルド・ダ・ヴィンチ」自身が指名されて受注した作品

この作品で
多くの登場人物のそれぞれの内面を語る意識溢れる表情の表現
マス(群衆)としての構図の配分
背後の戦いの中の馬群の動き
後方の建築物の建築的詳細の完璧さや遠近感
その他実に多くの要素が革新的に表れており
後世の絵画の技法や画家たちに大きな影響を与えた

しかし
彼はいわゆる「画家」ではない
論理学者 修辞学者
医学者 解剖学者 薬学者 植物学者
料理評論家
天文学者
工学者 土木技術の専門家 建築家 特に築城家
武器兵器開発者
外交官 
本人は「理想的国家インフラの建設と国土開発の専門家」だと思っていた
マルチプレーヤーのオールラウンダーの大天才だったのです
知能指数は
推定で280から400と言われてきた

この間にレオナルドは
フィレンツェ・トスカーナ大公の要請で
フィレンツェ大公特使としてミラノ公国へ派遣され数年間滞在し
その間にミラノの戦争を体験して
軍隊の「群衆」の表現や軍馬の躍動感と筋肉の現れなどを
つぶさに観察した

『ピドゥナの戦い』ピエーロ・デル・ポライウオーロ 1470〜75 
パリ ジャックマール・アンドレ美術館


『ルシウス・アエミリウス・Pクゥルスの凱旋』ポライウオーロ 1470〜75


そして敢えて言えば
絵画は数多の彼の才能を活かした活動の中の「おまけ」の一つ
と言っても過言ではない

『聖ヒエロニムスの改悛』ダ・ヴィンチ 未完 1480〜82 バチカン所蔵

注文主不明のこの未完の作品は
聖ヒエロニムスが主イエスと同じようにパレスティナの砂漠で
数々の誘惑に打ち勝つ40日間の修行をしている際の
心身両面での痛み苦しみと苦悩や軋轢や逡巡などが
筋肉の一筋一筋に至るまでを使って現されており
かつ
レオナルドの永遠の希求であった「限りない自由」の視覚的表現
など見事である


人間の内面観察
そして
肉体観察

彼は人間観察に熱中し

デッサン 人間の横顔の研究 1478〜80 ウインザー城所蔵
英国女王エリザベス2世陛下特別貸与

デッサン 聖母子と聖ヨハネ 人と動物のプロフィールの研究
1478〜80 ウインザー城所蔵 英国女王特別貸与

教会の許可を得て
死刑囚の亡骸を解剖する

ペン画 人間の体の各部位の比例半分研究 1489〜90
トリノ 旧王室図書館所蔵

ペン画 頭蓋骨と口腔と歯の研究 1489 ウインザー城所蔵

ペン画 解剖覚書 腕 1510〜11 ウインザー城所蔵

熱中のあまり
教会の許可を得ずに教会墓地を掘り返して訴えられ
逮捕投獄されかかったことすらあったが
彼の功績により
近代的「解剖学」が確立し
その解剖学を美術の分野に取り入れる画期的な業績を残した

一生涯ただ絵画を描き続けていたわけではなく
しかも途方もない完璧主義者だったので
気に入らなくて途中で筆を置いた事も多く
フィレンツェ大公の特使としてミラノ公国へ派遣され
そのミラノの特使としてヴェネツイア共和国に派遣され
一箇所に止まれなかったためにも
絵が完成しない事が多かった


若い男性の頭部肖像画の流れ

『ネロ帝の肖像のセステルス銀貨をもyす若者』ハンス・メムリンク
1471〜74 アントワープ コニンクリィーク美術館所蔵

『青年の肖像 傭兵』アントネッロ・デ・メッシーナ 1475 ルーヴル所蔵

『譜面を持つ青年の肖像 音楽家』ダ・ヴィンチ 1483〜90
ミラノ アンブロジアーナ絵画館所蔵

同じような男性の肖像で
それぞれに
モデルの意思や人格が伝わってくる傑作ではあるが
メムリンクというイタリアから言えば辺境フランドルの画家と
ルネッサンスの本拠地イタリアでの
10年強の時間差の中で
表現された結果が飛躍的に深まっていくことがわかる
加えて
内面の精神性の表現に加えて
骨格や筋肉の肉付きとその動きによる表情が相乗効果をもたらす
昇華が見られる

その他
この世の森羅万象全てに興味を示し
克明に観察し研究した
現代の天体望遠鏡でないと解明できないはずの
地球の各惑星の大きさと太陽との距離などを正確にメモに残している

植物にも同じ姿勢で臨み
原題の植物図鑑に遜色ない図録を残した

ベツレヘムの星・野生のアネモネ・トウダイグサ 1505〜10
ウインザー城所蔵 王室コレクション

ダヴィンチの絵に描かれる草木は
幻想的に見えるが架空のものではなく
全て自然界に存在している実物が忠実に再現されている




この項は明日に続きます
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
【お願い】
皆様方のご意見をお待ちします
「長すぎる」「説明が多すぎて煩わしい」「もっと説明がないとわからない」
その他何でも「コメント」ボタンから「コメントを送信する」で送信フォームになります
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プロヴァンスを巡る 55 東プロヴァンスの山の村々を訪ずれる 5 <城と森と治水の村 モンス>

2021-02-03 00:46:35 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
『Château Moderne シャトー・モデルヌ(現代城)』


「ファイアンス」や「モントールゥ」などの村々が東西に連なる位置から
さらに北へ数キロ離れて独特の村がある
『Mons モンス村』

旧集落(Village ヴィラージュ)は例によって丘の上のこじんまりした村だが
村域は結構広く(これまでの他の村々も同じ)
起伏の多い山並みと
それぞれの頂に残る石器時代の要塞集落の遺跡と
広い森に点在するいくつかの「字(あざ)」にある城
それらの城や集落に給水した給水システムなど
興味深いものが数多く残っている

全景の俯瞰

右端に見えるのは
『Château Moderne モデルヌ城』
その名の通り
古い歴史はない様だ
役場と公民館(集会場)が使っている


教会は細長い楕円形の旧城壁内の村域のほぼ中ほど


『Eglise Notre Dame de l'Assomption 被昇天の聖母教会』



集落の中は










旧村落域(ヴィラージュ)周囲の広大な森と山々には
新石器時代以来の遺跡が数多い

『Dolmen de Peygros ペイグロ地区のドルメン』

『Dolmen de Saint-Marcellin サン・マルスラン地区のドルメン』

Villard の環状防壁集落の跡

Oppidum de Roubies ロゥビィの防壁集落の跡

Castrum de St-Laurent  サン・ローラン防壁砦住居群の跡

中世の切石積みのボリーや集合住居の跡も各地に

ルーキエール山中の羊飼い小屋

ブラキエール山中の羊飼い小屋

ブリオーグの石積み小屋
最近まで使われてきたようだ

同内部

カンペストルの石積み小屋ボリー

そして

『Château de St-Marcellin サン・マルスラン城』

サン・マルスラン城への給水の水源池


ヴィラージュ周辺の城の中で最も保存状態の良いものが
『Château de Beauregard ボールギャール城』

Photo by @survoldefrance



山中の水源から城に水を供給する水道
現在はパイプが通してある


城の敷地内の地下水道の一定の距離ごとに
点検のための縦坑が並んでいる

城側の取水口


『Château de la Lubi ルービ城』

ルービ城の地表部水道

ルービ城への給水水道暗渠部の点検用開口部

城側の受水槽

城はなくとも
集落ごとの水道が残っている

『Aqueduc de Riens リアン地区の水道』


同 内部

現代に拭き直した天井部分


水源から地区までの地下水道の途中にある井戸

『Chapelle Saint-Pierre ou San Peyre de Riens リアンの聖ペテロ礼拝堂』

モンス周辺には水源がいくつもある

ネッスゥン地区の水源


ローマ時代の貯水ダムと分水口が
時代とともに修理されながら今日に伝わっている

それぞれの城や教会のある集落に給水された



各地区(集落)には
それぞれの水場や洗濯場もある

『Basson de Bourigailles ブーリガイユ地区の水場』

『Puis de Frigoure 1 フリグゥル地区の井戸 1』

『Puis de Frigoure 2 フリグゥル地区の井戸 2』

『Puis de Frigoure 3 フリグゥール地区の井戸 3』


『Fontaine de la Ferme de Villard ヴィラール地区農園の水場』







水車を持つ集落もある
この水車は水が跳ねないように覆いがしてある

このモンスの自治体圏にはいくつものローカルな城がある

『Château d'Esclapon-Bas 下エスクラポン城』


※  ※

最後にもう一箇所
『Cabris カブリ村』


この村は
一番高いところは標高760mを超える
ちなみに自治体域全体で最低は250mほどと高低差が激しい

11世紀建設の戦国時代の城塞があったが
プロヴァンスの君主でナポリの王だった『ヨアンナ女王』の時代
16世紀に戦乱で破壊された


城址はそれでも重文



城の残存部を利用しながら建てられた後世の建物が
美しく修復されて
ホテルに利用されている




そして
集落内外に美しい教会や礼拝堂が数多い

『Eglise Notre-Dame de l'assomption 被昇天の聖母教会』





『Chapelle Saint_Sébastien 聖セバスティアヌス礼拝堂』






『Chapelle Sainte-Magueritte 聖マルグリット礼拝堂』




『Chapelle Saint-Jean-Pape 教皇と聖ヨハネ礼拝堂』


この礼拝堂は
2017年に完全レストアされた
正面にも側面にも後部の壁にも
石のひび割れを止める「かすがい」がはめ込まれている
側面の下部にオリジナルの石組みが見える
建設当時は
背後の斜面はここまで崩れてはいなかったのかもしれない


『Chapelle Saint-Jean 聖ヨハネ礼拝堂』

家並みはといえば









『時計塔』

周辺部には共同洗濯場も残っている


さて
55回も続いてしまったプロヴァンス巡りは
一旦ここで終止符を打とうと思います
このすぐ近くに
プロヴァンス最東端の名所『カンヌ』や『グラース』があるが
それは後日
『ナポレオン街道』でご紹介しようかと思っています
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
ご感想やご意見ご要望などをお待ちしています
右下の「コメント」からどうぞ
旅行の実際につては以下のサイトも御覧ください
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プロヴァンスを巡ろう 54 <東プロヴァンスで 後背地の山の村々を訪れる 3>

2021-02-02 00:16:09 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
トゥーレットの『Château du Puy シャトー・デュ・ピュイ』


昨日の「ファイアンス」に隣接するように
もっと小さな丘があって
そこにある村


『Tourettes トゥーレット村』


丘の上の
ふる〜いお城の跡にいつの頃か塔を建てて時計塔にした
その塔が
村の名前「Tourette  小塔/かわいい塔」の由来
なのではなかろうか

しかし実際にはそうではなく
この地に城は無かった模様
城塞を形作るほどのしっかりした切石の残骸もない

城には二つの塔があるが
19世紀のナポレオン時代の城なので村名にはなりえない

『Château de Puy ピュイ城』





ナポレオンが
ロシア国内の道路網の実情その他戦略的情報収集のために
サンクト・ペテリブルクに派遣した武官が
30年のロシア滞在から帰国する際に
滞露中に集めた絵画や美術工芸品を飾る博物館として使える様に
城を建設した
サンクト・ペテルブルクの陸軍士官学校をモデルに設計したが
本人の生前には完成しなかった


従って
裏側から見てみると
正面左右の角塔の内側は作られていない事がわかる




それよりこの村は
フタコブラクダのような二つの起伏の
小さい方の頂上を『ピュイ城』が占めており
大きい方の丘が集落で
その天辺が『時計塔』という構造

教会は集落の丘のやや下の方




『Eglise Saint-André 聖アンドレ教会』























ところでこの『トゥーレット村』は
殆どの民家が非常に高いレベルで修復されている
ヴァカンス時期は千客万来なので
地元に落ちるお金も多く
自治体主導で建物のレストア(修復)を積極的に行ってきたことが
観て取れます

この
隣同士の二つの村『ファイアンス』と『トゥーレット』の
供用飛行場がある
「空港 Aéroport」ではなく「飛行場 Aérodrôme」

『ファイアンス=トゥーレット飛行場』

ターミナルビルのなんと可愛いこと
もちろん定期便などはありません
飛行クラブが使っていて
あとは報道ヘリやらいろいろ不定期に利用されているらしい


※  ※

「トゥーレット」から東に3〜4kmで
『Callian カリアン村』
に至る

『Château de Callian カリアン城』

11世紀に築城され
今は両側の丸い塔が12世紀と13世紀の部分
大部分は16世紀に「プロヴァンス・ルネッサンス」様式で改築

南側正面と裏側北面や西側では
かなり印象が違う

南側

西側






城の北東のはずれ(しかしすぐ近く)に
教会がある
写真の三角尖塔屋根の四角い高い塔がそれ

Photo by ⒸGoogleMap

右上の細長い長方形の建物が教会

『Eglise Notre-Dame de l'Assomption 被昇天の聖母教会』



『Place de l'Eglise 教会前広場』








噴水(水場)





※  ※

東に10kmほど行くと
『Montauroux モントールゥ村』がある

非常に美しい城館が名高い

『Château de la Colle Noire コル・ノワール城』

なぜ名高いかというと
『クリスティアン・ディオール』の所有だったから


城の歴史自体
それほど古くはない
建設が19世紀後半で20世紀になってやっと完成したようだ

戦後
敷地が100ヘクタールを超える広大な城が痛んでいて
維持が難しくなりかかっていた時
1950年にクリスティアン・ヂオールが買い取った


彼は
城本体も丁寧に修復し
各お部屋を入念に装飾していきながら
自分の作る香水の根底をなす花畑を庭園に植え
陽光を反射する池
鈴蘭や
薔薇や
ラヴェンダーなど
さらには
葡萄
アーモンド
オリーブ
等を精力的に植えていった


北部ノルマンディーの生家も
庭に特別の花壇を作って
四季折々に花に囲まれる環境を作っていたが
ここ
南仏のプロヴァンスを殊の外好み
「私の家」
と呼んで丹精して飾っていった


結局
彼は1957年に神のもとに旅立ち
「我が家」の完全な感性を見ることはなかった

その後
クリスティアンの遺族から
『Parfum Christien Dior』(香水部門の会社)が買い取り
クリスティアンがパリを離れて滞在中に
暮らした頃のままに再度修復された









現在
パッファン・ディオール社のパーティーや
顧客筋などの接待用ゲストハウス
それに
文化と芸術のランダムな集会やワークショップや合宿
などに開放されている




旧村落はといえば


頂上の平な丘の上に
起伏の少ない集落を形成している

一番最初の部分が一つの礼拝堂を取り囲んで円形の家が並んでおり
その南につながって
後から開けた部分が長方形に延びているので
まるで前方後円墳の様な輪郭

Photo by @GoogleMap

礼拝堂と
その前の敷地を囲む石塀がわかります

『Cjapelle Saint-Barthérémy 聖バーテレミー礼拝堂』


鐘が正面ではなく後ろ側の屋根の上にある

そしてややこしいことに
この「礼拝堂」と同じ名前で「教会」もあるんです

『Eglise Saint-Barthérémy 聖バーテレミー教会』





村の様子も



=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
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プロヴァンスを巡ろう 53 <東プロヴァンスで 後背地の山の村々を訪れる 2>

2021-02-01 00:16:09 | 素晴らしき世界/フランス/プロヴァンス
『セイヤン村』 外周の家並み


昨日に続いて
『エストレル海岸』後背地
海から20kmほどの山地に東西に点在する村々を訪ねよう



『Séillans セイヤン村』

11世紀の天守(円形の塔)と12世紀の城郭
及び
11世紀のロマネスクの教会
を持つ
中世の村そのもの


一番高いところは城

『Château de Séillans セイヤン城』



『Porte Sarrasine サラセン人の門』

城門は複数残っているが
これは「サラセン人の門」と呼ばれている

預言者ムハンマドの死後
わずか1世紀にして東は中央アジアから西はイベリア半島まで
大帝国を築いたウマイア朝は
ピレネーを超えてガリアの地に侵攻し
732年フランス中央部「トゥール」と「ポワティエ」の間で
大激戦の末「カール・マルテル」率いるフランス諸侯連合軍に敗れて
イベリア半島に引き返した
その流れで
地中海岸はイスラム(サラセン人)に占領されたり略奪されたりで
その時代の
イスラム建築(主に城壁)が残っている

だがしかし
この城門の名はサラセン人とは無関係
扉は内側に開くのがヨーロッパのしきたり
この門の扉はサラセン風に外に向かって開いたから

ここセイヤンは
一度もイスラムの襲撃を受けたことはないんだそうです


旧城壁内は
やはり坂道が多い







サラセン人の門




『サラセン人の門』は
本来あった城壁部分は無くなって
城門の部分だけが独立して塔の様に残されている


『Fontaine de la Place Thouron トゥーロン広場の噴水』


『Fontaine de la Place de la République 共和国広場の噴水』


村役場


Ivan Ivanov 作『ドラゴン』


『Place de Boucherie 肉屋の広場』

その昔
肉屋があったのであろう広場が今では寂しい限り





教会は白の反対側


右が城で
左が教会

正面上部

周り全部に建物が立て込んでいて
正面も側面も
全景を画面に入れられるだけ下がれる空間は全くない




旧城壁外に
非常に似た二つの礼拝堂あり

『Chapelle des Selves セルヴの聖母礼拝堂』


『Chapelle Notre-Dame de l'Ormeau オルモーの聖母礼拝堂』(重文)

この村を歩いている時
ある家の表に面白いものを見つけた


「猫にご注意」

猫を2匹飼っているおたくなのだろう
扉を無造作に開けないようにという注意か






※  ※

『Fayence ファイアンス村』


かなりの急勾配の斜面にへばりつき
等高線上に動線を持つ村

天辺は『時計塔』

『Tour de l'Horloge 時計塔』

おそらく古い城址の塔の再利用だと思われる
時計をつけたのが1708年か
一応鐘もつけるようになっている



城の残骸もある



教会は城より下の方にある



四角い塔が教会の鐘楼

もし左奥の小さな二つの四角い塔が判別できれば
すぐ隣『トゥーレット村』の城

『Eglise Saint-Jean-Baptiste 洗礼者聖ヨハネ教会』




内部写真は手ぶれで恐縮です
プロヴァンス共通の雰囲気

それから
この村にも上の「セイヤン」と同じ造りの礼拝堂もある

『Chapelle Notre-Dame des Cypres 糸杉の聖母教会』

正面玄関口の前に
屋根で覆われた張り出し「ポルシュ」が付いている
さらに変わっているのは
後陣(正面から入って一番奥の外側)に鐘楼が立つ




さらにこの村にも
『サラセンの門』がある



通りをまたぐ
アーケード型の村役場も既視感十分



結構な勾配の斜面なので
等高線に沿わない動線は階段か坂道




勾配の少ない等高線沿いの道路は車が走り
日常生活の商店や飲食店は
階段や坂道を歩いて

噴水(水場)もいたるところに





共同洗濯場

とっても素敵な入り口のあるレストランを
見つけました



集落域の外に
ローマの水道橋がかなり完全な形をとどめて
残っています


では
あと二回程この辺りの村をごい紹介して
『プロヴァンス巡り』を終わりにしようと思います
もう少しだけ我慢して
お付き合いください
=  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =  =
「ご感想」「ご意見」「ご要望」その他なんでもお待ちしています
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