賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

ユダヤ人の血と涙は世の終わりの人にどんな警告を与えたのか

2019-11-20 20:41:53 | 聖書の言葉

   ユダヤ人というと、わたしたちはこの民族が二千年近く虐殺されたり、亡命したりしていたという長い歴史を思い出します。1948年イスラエルが復国する前に、ユダヤ人は故郷も祖国もなく、世界各地に亡命し、各国の人に唾棄され、排斥されていました。最もひどいことに、何度も大虐殺に遭いました。

   紀元70年、ローマ帝国の皇帝ウェスパシアヌスの皇太子ティトゥスは十万人の部隊を率いてイスラエスの首都エルサレムを包囲攻撃し、ユダヤ人に対して破滅的な大虐殺を行ないました。その死亡者数は百万人を超えました。生け捕りにされた多くのユダヤ人はローマ人に売られて、船や山で苦しい労働をするように強いられました。また多くの人は競技場に送られて、獅子と格闘してローマ貴族を楽しませるように強いられました。あの戦乱の中で、エルサレムの神殿は大きな火に焼かれました。それ以後、ユダヤ人は安心立脚の地、身の置き所がなくなり、次々に諸国に逃亡し、異国を流浪しました。

   紀元7世紀、イスラム勢力が絶えず伸びていました。多くのユダヤ人はイスラム教に改宗するのを拒んだため、殺されました。

   紀元14世紀、ヨーロッパの広い範囲で黒死病が蔓延していました。ユダヤ人はこの疫病の伝染源だといううわさがヨーロッパで流れていたので、ヨーロッパに亡命するユダヤ人の半数は殺されました。

   第二次世界大戦の間に、ヒトラーはユダヤ人に対する集団虐殺を行ないました。大戦の直前、ナチス・ドイツはニュルンベルクで法案を通過させ、ユダヤ人が人身の自由のない民だと公表し、また彼らのすべての権利を剥奪しました。その後、何千何万というユダヤ人はドイツから追い払われました。第二次大戦の勃発後、ナチス・ドイツは戦争に乗じて、ユダヤ人に対する迫害を、史上かつてなかった頂点に至らせました。すると、ヨーロッパの多くの国のユダヤ人は次々と殺害されました。ある人は銃殺され、ある人は絞め殺され、ある人は生き埋めにされました。その後、ナチス・ドイツは捜査によって逮捕したユダヤ人たちを大量に強制収容所に送りました。一部の人は選ばれて苦しい労働をし、ほかの人はガス室に送りこまれて化学薬品によって殺されました。戦後の統計によれば、ヨーロッパの各国でナチス・ドイツによって殺されたユダヤ人は600万以上いたそうです。



   実は、エルサレムの神殿が破壊されたことも、ユダヤ人が亡命したり、集団虐殺されたりしたことも聖書の預言の成就です。申命記第28章25節にこう書かれています。「主は敵の前であなたを撃ち破らせられる。あなたは一つの道から敵を攻めるが、その前に敗れて七つの道に逃げ去る。あなたは地上のすべての王国にとって恐るべき見せしめとなる」。主イエスもイスラエルに対して次のように言われました。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前らの子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる」(マタ23:37-38)。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マコ13:2)。ユダヤ族の悲惨の歴史を見渡せば、聖書の預言がみな正確に成就したことを確証することができます。しかしなぜこれらのことが起こったのだろう。神は預言の成就のために事を行われるのですか。断じてそうではありません! 神は人の命を粗末に扱うことはありません。では、ユダヤ人のしたどんなことが彼らに国の滅亡のつらさを味わわせたのですか。

   わたしたちが知っているように、神は二千年前に主イエスという名によって、初めて受肉して人の世に来てわたしたち人類を贖われました。主イエスは働いている間に、悔い改るべきだという教えを宣べ伝えられました。彼はまた、力あるしるしや奇跡を行なわれました。例えば、盲人が見えるようになったとか、足の不自由な人が歩けるようになったとか、風と海を静めたとか、死人を復活させたなどです。当時、ますます多くの、主イエスの言葉を聞き、主の行なわれたしるしや奇跡を見た人は主の全能と権威に征服され、次々に主に立ち返りました。それと同時に、ユダヤ教のリーダ、すなわち祭司長、律法学者、パリサイ人は別の心理状態にありました。民が主イエスにつき従ったら、自分たちの地位と利益がなくなるのではないかと、彼らは心配していました。そこで、彼らは旧約聖書の文字によって主イエスを罪定めし、主イエスの名がメシヤではないという理由で、あらゆる面で主に敵対していました。彼らは、主イエスが律法に背き、安息日を守らないと非難し、しかも主イエスを冒涜し、主イエスに関するデマをまき散らすことさえし、また、聖霊からの受胎によって生まれた主イエスをナザレの大工の息子だと言いなし、主イエスが悪霊のかしらベルゼブルの力で悪霊を追い出している……と言いました。彼らは主イエスのために十分なデマ、罪名をでっち上げた後、主イエスに手をかけて捕らえ、しかもローマ人の手で主イエスを殺すと決めました。当時のユダヤの民の態度は何でしょうか。彼らのうちの多くの人は、ユダヤ教のリーダたちが一生ヤーウェ神に仕え、毎日人に聖書を解説し、人に律法を守るように教えるから、宗教のリーダたちの言葉はきっと正しいと思っていました。そのため、パリサイ人にそそのかされたユダヤの民も狂おしげに主イエスを罪定めしました。彼らはローマ政府に殺人犯バラバを釈放させても、主イエスの釈放を要求しようとしませんでした。ローマの総督ピラトがユダヤ人に「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」(マタ27:24)と言った時、ユダヤ人たちは「その血の責任は、我々と子孫にある」(マタ27:25)と言いました。理性を失ってしまったユダヤ人は自分と子孫の命を賭けても、主イエスを十字架につけようとしました。そのため、この上なく大きな罪を犯し、神の義なる性質を犯し、二千年近くにわたる国の滅亡のつらさを味わいました!

   二千年来、主を信じるすべての人は主が憐れみ、慈しむ主だと知り、人がどんな悪いことをしても、主の赦し、憐れみを得られると思っています。しかしユダヤ人の歴史が言及される時にだけ、わたしたちは主の性質に対する自分の本当の認識が一体どれほどあるかをまじめに反省します。実際には、主は原則と状況によって人類を憐れまれるのです。もし人が理性を失って狂気じみたように神に逆らい、神を冒涜し、しかも受肉したキリストを十字架につけさえするなら、神はやはり人を憐れまれるでしょうか。ユダヤ人は主イエスを十字架につけて、主の尊い血の最後の一滴まで流されるようにしました。このような大罪を犯した彼らはどうして神に呪われず、懲罰されないことがあるでしょうか。

   主は憐れみ、慈しむ主です。しかし主の憐れみ、慈しみは、真心をもって彼を信じる、神を畏れる心を持つすべての人だけに与えられます。主イエスが働いている間に、主イエスに逆らったユダヤ教のリーダたちや、定見のない民たちと違って、一部の人は確かに主イエスの憐れみと祝福を得ました。彼らは、主イエスの言葉を聞き、主イエスの行なったしるしを見たので、主イエスが真の神だと確信したすべての弟子と追随者です。例えば、弟子ペテロ、ヨハネとか、サマリヤの女などです。聖書にこのようなことが記されています。ペテロとその兄弟アンデレは主イエスについて行く前に、ガリラヤの海辺で漁をすることで生計を立ていたのです。ある日、主イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタ4:19)という言葉だけ言って、彼らを召されました。そこで、彼らはすぐに網を捨てて彼に従って行きました。ある日、主イエスは一人のサマリヤの女を見て、彼女に五人の夫がいるという秘密を言い出されました。それで、サマリヤの女は主イエスが来たるべきメシヤだと信じました。そして、彼女は「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」(ヨハ4:25)と言いました。ペテロ兄弟とサマリヤの女の経験から分かりますが、神の声だと分かると、ためらうことなく主を信じ、主につき従う人こそが、本当に主と同在し、主の祝福と約束を得ることができる人です。

   あらゆるクリスチャンが知っているように、世の終わりは主が再来される日です。月が四回血に変わるという聖書の預言はもう成就しました。地震、疫病、虫害、洪水、干害などの災難もしきりに起こります。いろいろの兆しは、世の終わりの裁きの日が来たことを示しています。わたしたちが直面している問題はこうです。主が本当に来られたなら、わたしたちは彼が主だと知ることができますか。わたしたちはペテロやサマリヤの女と同じように、神の声を聞くと主につき従いますか、それともユダヤ人の二の舞を演じますか。

   ルカによる福音書では、主イエスは世の終わりの彼の再来についてこう預言されました。「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」(ルカ17:25)。主は、彼が世の終わりに来た時、苦しみを受け、世の人から排斥されると言われました。神を信じるのに、神に逆らって、国の滅亡のつらさを味わったユダヤ人の失敗は、後人のわたしたちにとって教訓となりました。だが、世の終わりに「今の時代の者たちから排斥されることになっている」という主イエスの言葉がどういう意味か、主の再来を拒絶するという預言がどんな人の身に実現するか、わたしたちが分かりません。本当に神を畏れる心を持つ人はみなユダヤ人の二の舞を演じたくないと、わたしは信じています。だから、わたしたち自身がユダヤ人の歴史の悲劇を繰り返すことを防ぐために、わたしたちは教訓をくみ取るべきです。主が再来したという福音がいつかわたしたちに宣べ伝えられたら、わたしたちもパリサイ人と同じように聖書の文字をかたくなに守り、メシヤの再来だけ信じて、メシヤという名をかたくなに守り、神の働き、言葉の中から真理の道を調べない可能性がありますか。周りの人がわたしたちが主に近づき、主が再来したという福音を調べるのを阻止するなら、わたしたちもあの時の愚かなユダヤの民と同じようにデマを信じ、悪者と一緒に悪を行なって神に逆らい、神を冒涜する可能性がありますか。主の日がもう来ました。これらの問題は確かに、わたしたちがまじめに考えるべき問題、いつでも戒めとすべき問題です。


私はキリストを見るのにふさわしくない

2019-11-19 22:11:59 | 勝利者の証し

   全能神を信じるようになって以来、キリスト自身による牧養を受けることができ、自らの耳でキリストの説教を聞くことができる兄弟姉妹のことをずっと尊敬しています。心の中では、いつか私も将来キリストの説教を聞くことができたらどれほど素晴らしいかと思っています。もちろん、キリストを見ることはもっと素晴らしいことでしょう。けれど最近キリストの交わりを聞いたことで、私はキリストを見るのにふさわしくないと深く心から感じるようになりました。


   

   それは『いのちへの入りに関する説教と交わり第1~3巻』が発表されたときでした。第1巻を聞いたとき、私は聖霊に使われている人は話がとても上手だと感じました。第2巻で、ある姉妹の話を聞いたとき(これはこれらの交わりがキリストによるものであると誰かが教えてくれる前のことです)、私はこの人は単に聖霊に使われている人より格下のリーダーなんだろうなと想像しました。特に、知識をどのように見るべきかという問題についてこの姉妹が話したとき、兄弟姉妹が熱心に反応するのを聞かなかったので、私の想像は当たっていると確信し、またこの人は聖霊に使われている人ほど話が上手でないと感じたので、注意深く聞いていませんでした。第3巻を聞いた後、聖霊に使われている人の話の後、私は同じ姉妹が「今の兄弟の交わりについて…」と言うのを聞きました。それで私は余計にこの姉妹は聖霊に使われている人より格下のリーダーに違いないと確信したのです。というのも、上司が最初に話し、部下が後で話すのが世間の常だからです。そのため「あとで時間があるときにこれを聞こう」と思いながらスピーカーを切りました。この姉妹が実はキリストであると知った日、私はショックを受け、そしてついに説教の一字一句に真剣に耳を傾けました。

   その後、私は熟考を始めました。私はキリストの交わりを自ら聞きたいと強く願っていたのに、キリストがついに私たちに話しかけたとき、なぜ私は見分けることができなかったのでしょうか。私はこんな状況に関連する神の言葉を飲食し始めました。そして、神がこう言っていたのです。「すべての人はイエスの真の顔を見たい、イエスと共にいたいと思っている。イエスを見たいとも、イエスと共にいたいとも思わない兄弟姉妹がいるとはわたしは思わない。イエスを見る前には、つまり、受肉した神を見る前には、たとえばイエスの外観、話し方、生き方などについて、あなたがたはあらゆる考えを抱くことであろう。しかし、ひとたび本当にイエスを見たら、あなたがたの考えはすぐに変わる。なぜか。その理由を知りたいか。人間の考えを見過ごすことはできないというのは本当である。しかしそれ以上に、キリストの本質は人間が変えることを許さない。あなたがたはキリストは神仙であり、あるいは賢人としてとらえており、誰一人としてキリストを神聖な本質をもつ普通の人としてとらえていない。したがって、昼も夜も神に会うことを切望している人の多くが実は神の敵であり、神と相容れないのである。これは人間側の間違いではないだろうか。今でさえ、あなたがたは自分の信心と忠実は十分なので自分はキリストの顔を見るのに相応しいと考えている。しかし、わたしはあなたがたに実際的なものをさらに多く備えるように強く勧告する。これは、過去、現在、未来において、キリストと触れ合う人の多くが失敗したから、また失敗するからである。彼らは皆パリサイ人の役割を演じる。あなたがたの失敗の理由は何か。それはまさに、あなたがたの観念の中に立派で称賛に値する神がいることである。しかし実際は人間が望むとおりではない。キリストは立派でないだけでなく、特に矮小である。キリストは人間であるというだけではなく、ごく普通の人間である。…人々はキリストと共にいるときにキリストを気軽に扱い、…あなたがたは既に到来したキリストを普通の人間とみなし、その言葉を普通の人間の言葉とみなしている。このため、あなたがたはキリストから何も受け取っておらず、代わりに自らの醜さを完全に光にさらけ出しているのである。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より)神の言葉と比べて、私はキリストの交わりをついに聞いたときに自分の堕落した性質がどのようにはっきり示されたかを考えました。私はキリストの説教と交わりを自分の耳で聞きたいと望んでいたのに、キリストの交わりをついに聞いたときに、気にもとめませんでした。私はキリストをただ普通の人間とみなしていました。これは私がキリストの本質を理解せず、キリストが謙遜し隠していることのすべてを理解せず、キリストについての考えや観念を多くもちすぎていたからです。キリストの交わりはキリストに直接会える兄弟姉妹に限定されていて、他の人々は自らの耳でキリストの交わりを聞くことは許されないに違いないと私は想像していました。キリストの交わりは、キリストが正体を公に発表することを伴うのだろうと私は想像していました。キリストの交わりは、何らかの特別な人のように他の人々とは違う声で、多くの優美な言い回しをもって語られるはずだと私は想像していました。キリストの交わりは兄弟姉妹の興奮した情熱的な歓声に伴われるのだろうと私は想像していました。そして、聖霊に使われている人とキリストが順番に話すのならば、キリストが最初に話し、聖霊に使われている人は最後に話す…私はキリストの働きと言葉を私の想像の境界内に閉じ込めてていました。私はキリストを特別な仕方で想像したからです。事実が私が想像していたことと食い違ったとき、私はキリストを普通の人として、キリストの言葉を普通の人の言葉として扱い、他の人々が交わりから多くを得た一方で、私は何も得られず、傲慢で、思いあがった、真理を軽蔑するサタンのような自らの本性を曝け出し、キリストを拒否し抵抗する者となったのです。

   後になり、私は神の言葉に次のことを見つけました。「あなたがたはキリストを見たいと常に思っているが、自分をそのように高く評価しないことをわたしは勧める。誰でもキリストを見ることができるが、誰もそうするに相応しくない、とわたしは言う。人間の本性は邪悪、傲慢、反抗心に満ちているため、キリストを見た瞬間にあなたの本性はあなたを破壊し、あなたを死に至らせる。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと相容れない人は疑いなく神の敵である」より)「真理と真剣に向き合うことがなく、ましてや真理を慕い求めることもしない。ただやみくもに研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。あなたは神から個人的な導きを受け取ることができるか。神が語った言葉を聞き分けることができないなら、神の現れをどうやってその目で見ることができるのか。…真理を受け取ることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より)私があまりにも傲慢で、あまりにも反抗的で、あまりにも俗物で、身分や地位を持っている人たちであればあまりにも容易に傾聴し同意する気になるのに、一方では身分や地位を持たない人々を見下し、そのような人々が真理にしたがって語っても聞こうとしないため、神の声を認識することができないのだと、神の言葉により理解しました。交わりを聞いたとき、私は真理に集中せず、真理を得ることを望まず、その代わりに心は臆測と探求に没頭していました。私は傲慢さと反抗、観念と想像だけを暴露したのです。私のように傲慢で、反抗的で、真理を受け入れない者が、私のように信心や真理への渇望がない者が、いったいどうして神の声を聞き、知ることができるのでしょうか。どうして私がキリストを見るのにふさわしいでしょうか。

   この啓示を通して、たとえ私がキリストを見たいと思っても、サタンによる私の堕落があまりに深く、生来私は傲慢で反抗的であり、私には真理がなく真理への愛もなく、キリストの本質を理解せず、ばかげた偏見で判断し、あまりにも多くの観念や考えを持ち、私が信じる神は依然曖昧な神であり、力強く雄弁な姿かたちをしているため、私はキリストを見るにはふさわしくないということをついに理解したのです。そして私が本当にキリストを見ると、私の観念は根を張り、私の傲慢さはいつ芽を出すか知れず、そのため私の反抗的な本性が私を滅ぼすかもしれません。今私は真理を身にまとい、神の言葉において私の堕落した本性とキリストの本質を理解することを求め、キリストを理解し崇拝する人にならなければなりません。


なぜ主イエスは安息日に弟子たちが麦の穂を摘んで食べることを許されたのか

2019-11-18 10:42:31 | 聖書の言葉

   「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた」(マタイによる福音書12:1)。

   以前この節を見た時、なぜ主イエスが安息日に外出なさったか、なぜ彼が麦畑を通られた時、弟子たちに麦の穂を摘んで食べることを許されたか、全然分かりませんでした。律法の規定によれば、安息日にすべての仕事を止めて神を礼拝すべきであり、勝手に外出したり、勝手に活動したりすることが許されていません。主イエスのこのような行動は、当時のパリサイ人の目には、律法を犯すものでした。では、主イエスはなぜそうなさったのですか。主イエスは一体当時の人に何を教えたかったのですか。



   その後、わたしは主にある兄弟姉妹たちとこの問題について討議しました。主の導きの下で、わたしたちはとうとう問題の真相が分かりました。この真相はこうです。主イエスが受肉して人の子となって働かれる前に、神はずっと聖霊の働きという方式によって人類を導かれていました。腐敗した人類は肉眼凡胎であって、直接ヤーウェ神の啓示を得られるモーセとほかの預言者たち以外にいかなる人も直接神の意志と神の人に対する要求を理解することができません。だから、神が律法を定め、発布することの意義は、当時の人に彼の意志と要求を伝えて、彼らに律法と戒めを守れば神の祝福を得られ、律法と戒めに違反すれば律法によって罪定めされ、神によって呪われることを分からせることです。神は律法と戒めによって、人が地上で合理的な、秩序正しい生活を送るのを導かれました。それは、人が律法と戒めを守ると同時に、神を本当に畏れるためでした。そうなったら、サタンに腐敗させられた人類は罪悪によって食い尽くされることはなくなり、律法の拘束を受けて、正常な人の持つべき生活を送るようになりました。

   神は受肉して人の間に来て働いた後、直接声を発し、言葉を言って人の必要を供給することができ、直接彼の意志と、彼の人に対する要求を言い表すこともできます。例えば、当時主イエスにつき従う弟子たちと民はどんな難題があっても、直接主に求めることができました。主は彼らの実際の必要によってその場ですぐに解答することができ、直接明瞭に実行の道を指し示すこともできました。なぜなら、主イエスのすべての言葉、彼のなさったすべてのこと、彼の出されたすべての要求は神自身から出るものだからです。それは、「わたしは道であり、真理であり、命である。……」(ヨハネによる福音書14:6)と主イエスが言われたとおりです。だから、神自身は人類に現れた後、律法の文字、規定に基づいて働く必要がなく、時間、空間、地理、人の観念、想像によって束縛されることはありません。こういうわけで、主イエスが安息日に外出し、また空腹になった弟子たちに麦の穂を摘んで食べることを許すという行為は、当時の人に彼の到来がすでに律法の時代を終わらせ、贖いの時代の新しい仕事を開いたことを告げていました。

   主イエスの当時の働きは人の観念にかないませんでしたが、真心をもって神を信じ、真理を愛するすべての人、例えば弟子ペテロ、ヨハネなどは観念、想像に縛られたり、束縛されたりせず、主の働きと言葉のゆえに、彼が主だと確信し、しかも動揺せずに主につき従い、主を証ししました。しかし、ユダヤ教の祭司長、律法学者、パリサイ人たちは主の働き、言葉の中から真理を求めないばかりか、かえって律法の文字、規定によって主イエスを、律法と戒めを守らない者と罪定めし、そうすることで神の新しい仕事に逆らいました。パリサイ人は口では神を信じると言っているが、実は自分の観念、想像の中の神、聖書の文字の中に限定されている神を信じていたのです。神はただ律法を発布する神だ、神の働きはただ律法の範囲内にあり、律法を超えたら神の働きではなくなると、彼らは思っていました。彼らは観念が陳腐でかたくなで、本性が傲慢で独りよがりであって、死んでも真理を求めず、真理に頭を下げませんでした。そのため、彼らは人の世に来て人類を贖う主イエスを十字架につけ、許すことのできない大悪を犯しました。主イエスは彼らを彼らの「七重の災い」によって罪定めし、しかも彼らを徹底的に捨て、淘汰されました。これは周知の事実です。以上から分かるように、神の働きは永遠に新しく、決して古くはなく、真理を求め、真理に従う、神の働きについていける人はみな神に救われる人であり、神の働きの歩調についていけず、観念、想像を固守して神を罪定めし、神に逆らう人はみなパリサイ人の子で、必ず神の働きによって明らかにされ、淘汰されます。これは前人が残した歴史の教訓であり、また現代のわたしたちと未来の人が心に銘記すべき戒めです!


なぜ主イエスは安息日に働かれたのでしょうか

2019-11-17 21:32:07 | 聖書の言葉

ヤーウェ神が人に安息日を守るように要求されました

   旧約聖書には、ヤーウェ神が律法と戒めを発布してわたしたち人類に守らせたことが記されています。安息日を守ることは、人の遵守すべきことの一つです。第四の戒めはこう言っています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出20:8-11)。ヤーウェ神は万物創造の七日目を安息日と定められました。この日、人はみな手元のすべての仕事を止めて神を礼拝し、神にいけにえをささげ、太鼓をたたき、竪琴を奏でて神を賛美すべきです。安息日に勝手に外出してはならず、いかなる仕事もしてはなりません。民が安息日を守らなかったら、他人に石で打ち殺されました。祭司が安息日を守れなかったなら、ヤーウェ神は天から火を下して彼を焼き殺しました。これで分かるように、律法はわたしたち人類が厳しく遵守すべきです。



主イエスは安息日に働かれました

   ヤーウェ神は人に安息日を守るように要求されました。でも新約の四福音書には、主イエスが働かれた時安息日をお守りにならなかったことが記されています。例えば、マタイによる福音書第12章1節にこう書かれています。「そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた」。ルカによる福音書第14章1-5節にこう書かれています。「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。『安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか』。彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。『あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか』」。この二箇所から分かりますが、主イエスは働かれた時、安息日をお守りませんでした。彼は安息日に病人の病気をいやされました。しかも安息日に弟子たちを連れて麦畑を通られた時、弟子たちが麦の穂を摘んで食べてもお責めになりませんでした。これで分かるように、主イエスは律法の下のイスラエルの民のために一つの新しい道を開かれました。

なぜ主イエスは安息日に働かれたのですか。主の意図が何でしたか。

   主イエスは「人の子は安息日の主なのである」(マタ12:8)と言われました。主イエスが安息日に働いたのは、わたしたち人類が神は安息日の主で、すべてのことは神に決められるということを知るためでした。神はヤーウェと呼ばれることができ、律法、戒めを発布することもでき、主イエスと呼ばれて、しるしと奇跡を行ない、十字架につけられて罪祭となることもできました。彼は神殿の中で働くことも神殿の外で働くこともでき、律法を発布することも律法を廃棄することもでき、預言者たちに彼の言葉を伝えさせることも、受肉して人の子となって自ら人類を贖うこともできました。しかも彼はイスラエルで働かれた後、贖いの福音を宇宙の果てにまで宣べ伝えることができました。……神にあっては、いかなる制限や禁忌もありません。神がいつ働くか、どのように働くか、どこで働くかということに融通性があります。神は自分のしたいようになさるのです。

   主イエスが安息日に働いたのは、主は新しい仕事をもたらしたということ、また、わたしたちがもはや定め、規定を守らず、もはや神殿に行って神を礼拝せず、どんな時どんな場所でも心と誠実さをもって神を礼拝し、しかも主イエスから与えられる豊かな恵みを享受するために、主はわたしたち人類を律法の束縛から導き出すだろうということを、わたしたち人類に知らせるためでした。主イエスの言葉と働きからわたしたちが分かりますが、神の道は生きているのであって、死んだのではなく、一定不変でもありません。神は永遠に新しくて、古くなることがない神です。だから、神はいつまでも新しい仕事をなさるのです。主イエスが力と権威に満ちているのだから、彼の仕事はいかなる人、事、物にも束縛されず、いかなる敵勢力にも阻まれません。ローマ政府とユダヤ教全体がどのように迫害し、罪定めし、かき乱しても、主イエスの贖いの福音は依然として世界各国に宣べ伝えられました。聖書のこの節を見た後、あなたはどんな認識を持っていますか。


なぜ主イエスは普通の姿で人の間で働かれたのか

2019-11-16 23:10:57 | 聖書の言葉

   わたしは牧師で、主のために長年働き、道を説きました。しかし、主イエスがこの世に来て働かれる時、なぜ普通で平凡な人の姿を取られたのかという疑問はずっとわたしの心底にあります。主イエスの容貌が平凡なので、多くの人は彼が神ご自身であることを否定します。多数の人は彼を普通の人と見なしてしまいます。特に祭司長、律法学者、パリサイ人はそうです。彼らは主イエスを神として扱うどころか、かえって主イエスがただ貧しい大工の息子だと論断し、主イエスが悪霊のかしらの力で人の病気をいやし、悪霊を追い出すのだと中傷し、主イエスが神ご自身であることを極力否定しました。「もしわたしがその時代に生まれたら、どのように主イエスを扱うのか、それらの人のように主イエスの平凡さのゆえに彼を評価し、否むだろうか」と、わたしは自問せずにはいられません。これらを考えた後、わたしは自分がどうなるか分かりません。よく考えてみれば、わたしがいま主イエスをわたしの救い主として受け入れることができるのは、主イエスの贖いの仕事がすでに成就し、主の聖なる名が広範囲にわたって証しされたからです。もし主イエスの働きの時代に生まれたら、わたしも当初のパリサイ人と同じように主イエスの普通の容貌のゆえに主に逆らうかもしれません。それで、わたしは困惑してしまいます。「神が最高至上なのに、なぜ普通で平凡な姿を取ってこの世に来て働かれるのか。神が帝王の家に生まれて、偉大な姿、偉人の風格があるとしたら、人は容易に彼を受け入れるのではないか」と。わたしは長い間この問題に困惑しています。

   この問題は、わたしがいくら考えても分かりません。わたしは何度も聖書を調べ、また多くの本を読みました。聖書を読み、真理を求め、祈ることによって、わたしは主イエスが普通の姿でこの世で働かれることは意義のあることだと分かりました。わたしはまず、聖書にこういうことが記されているのを見ました。東方の三博士は彼らの想像、観念のゆえに、メシヤが王宮に生まれるはずだと思っていました。彼らは王宮に行ったが、生まれた主イエスが見つかりませんでした。彼らの予想に反して、主イエスは飼い葉桶に生まれ、ユダヤのベツレヘムのある大工の家に生まれ、しかも普通の人の姿を取られました。神はそんなに偉大ですが、普通の人の姿を取られました。このことから分かるように、神の本質はへりくだり、控え目に振る舞うことであり、神は地位があるが、うぬぼれず、自分をひけらかして人に崇拝させることは全然しません。しかしわたしたちは虚栄的であって、人の外見を見、偉大な姿を崇拝するだけで、神の本質と、神の美、善という面とを認識することを重んじません。考えてみましょう。人が想像しているように、主イエスが本当に王宮に生まれ、しかも偉大な姿があるなら、あらゆる人はどうなっただろう。そうであれば、神に逆らうユダヤ人、律法学者、パリサイ人たちは主イエスの普通の姿のゆえに主に逆らうことはなくなります。逆に、彼らはきっと主イエスについて行きます。それでは、彼らの偽善的な、神に逆らう本性の本質はどうして明らかにされることができるでしょうか。それだけでなく、地位の低い人たちは主イエスの偉大な姿と高い地位のゆえに、神は雲の上の存在だと思ってしまいます。こうして、それらの普通の民は容易に神に近づくことができず、また容易に主の救いを得ることができません。



   ここまで言う時、わたしは主イエスが普通の姿で人の間で働くということの中には神の知恵が隠されていると認識しました。神は全地を見渡すことができるので、神を信じる人は多いが、真心をもって神を信じ、真理を渇望する人はほんのわずかだと知っておられます。そういうわけで、神は、ご自分が平凡で普通の人の姿で現れることによって、真心をもって神を信じ、真理を渇望するすべての人を選び、救われるのです。主イエスはこう言われました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(ヨハ10:27)。真心をもって神を信じ、真理を渇望するすべての人、例えば、弟子ペテロ、ヨハネ、アンデレ、ナタナエルと一部の民は主イエスの道を聞いたため、それは主の声だと分かり、主に立ち返りました。聖霊は真心をもって神を信じず、真理を渇望しない人たちに対して働かれませんでした。彼らは当初のパリサイ人たちと同じで、まさに主イエスの働きによって淘汰される人でした。神がこのようにすれば、あらゆる人は明らかにされました。なぜなら、真理を求め、渇望する、聖霊の働きについて行ける人は神のどの段階の働きの中にも神の求めておられる人ですが、聖霊の働きについて行けない人は聖霊の働きによって淘汰される人です。こうして、善人と悪人という二種類の人は容易に分けられることができます。これはまさに神の知恵です!

   これらが分かった後、わたしは気持ちがすっきりしました。しかも、主イエス・キリストが普通の姿を取って働くのは、へりくだり、控え目に振る舞うという神の本質をわたしたちに認識させ、わたしたちと神の間の隔たりを縮め、わたしたちに主イエスの言葉の中から真理の供給と牧養を得させるためだけでなく、真理を愛さず、いつも外見によって神を限定する、神に対する漠然とした想像に満ちている人を明らかにするためでもあると知りました。こうして、わたしは神がどのように仕事をしても、その仕事の中に神の意図、知恵があることを見ました。この面の真理を求めることによって、わたしは大きな収穫を得ました。これからは、わたしはパリサイ人の教訓をくみ取らなければならず、主イエス・キリストの外見によって、彼が神ご自身ではないと断定してはならず、ペテロ、ナタナエルのように、主の言葉を通して神の声かどうかを弁別すべきです。そうすれば、神を罪定めし、神に逆らうという間違いを犯すことはなくなります。

   神の啓きに感謝します。すべての栄光を天におられるわたしたちの父に帰します!