賛美の心

こちらでは賛美、礼拝、心を主の前において静まり、まことの心で神様を賛美することだけです。

ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意すべきだ

2019-11-15 23:16:35 | 職場の人間関係

   「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」(マタ16:6)

   主イエスはどんな背景の下でこう言われましたか。聖書にこう書かれています。「ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。『あなたたちは、夕方には「夕焼けだから、晴れだ」と言い、朝には「朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ」と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない』。そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。イエスは彼らに、『ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい』と言われた。弟子たちは、『これは、パンを持って来なかったからだ』と論じ合っていた。イエスはそれに気づいて言われた。信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい』。そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った」(マタ16:1-12)。

   聖書のこの箇所から、わたしたちは主イエスが弟子たちにファリサイ派とサドカイ派の人々の教えに注意するように教えたということがはっきり分かりました。わたしたちが知っているように、当時ファリサイ派とサドカイ派の人々は教会の上層部の人でした。では、なぜ主イエスは弟子たちにこれらの人を警戒するように教えられたのですか。わたしたちは、主イエスが働かれた時期に、ファリサイ派とサドカイ派の人々がどんなことをしたかを見てみましょう。




   主イエスがこの世に来て働かれた時、人がよりよく彼を認識し、彼の贖いを受け入れるためには、神は盲人が見えるようにし、足の不自由な人が立ち上がって歩くことができるようにし、悪霊にとりつかれている者をきよめ、しかも死人を復活させられました。主イエスは多くのしるしと奇跡を行われました。当時のユダヤの民は、主イエスから多くの恵みと祝福を得、また神の多くのすばらしいみわざを見ました。そのため、彼らは次々に主イエスに追従して彼の道を聞きました。ファリサイ派とサドカイ派の人々は多くの人が主イエスの追従者になったのを見た後、自分の地位、生活の道を守るために、絶えず主イエスを誹謗し、罪定めし、また主イエスに関する多くのデマをでっち上げました。しかし愚昧なユダヤの民はデマを聞いた後、弁別力を持たなくて正しい立場をしっかり守ることができないため、ファリサイ派とサドカイ派の人々と一緒に主イエスを否み、裁きました。こうして、主イエスを罪定めする声がユダヤ教全体に満ちていました。このような背景の下で、主イエスは弟子たちに「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」(マタ16:6)と教えられました。

   主イエスの弟子たちは主の働きと言葉のゆえに、主イエスが来たるべきメシアだと分かり、彼の病気をいやし、悪霊を追い出す力が神の権威から来るのだと信じていました。彼らはファリサイ派とサドカイ派の人々のまき散らしたさまざまな謬論やデマを見破り、動揺せずに主イエスに追従していました。しかし、それらのユダヤの民はファリサイ派とサドカイ派の人々のデマに惑わされたため、彼らと一緒に主イエスを十字架につけました。こうして、ユダヤの民は神に逆らい、神を罪定めした人になりました。最終的に、全民族は国の滅亡のつらさを味わいました。

   聖書にはすでにこう預言されています。「『見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである』。命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む物、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる」(黙22:12-15)。聖書のこの数節から、わたしたちは世の終わりに主イエスが再来される時、うそいつわりをでっち上げるようなことがたくさん現れるということが分かりました。では、ユダヤ人の二の舞を演じないためには、わたしたちはどのように「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意する」べきですか。これは、主が戻ることを心から望むあらゆる兄弟姉妹が分からなければならない真理です。

   どのようにファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意すれば、賢いクリスチャンになれるかという話題は、わたしたちは明日、聖書読解シリーズの文章の中で続けて交流しましょう。


サタンの支配を振り払い自由になる

2019-11-14 22:46:36 | 職場の人間関係

   神様を信じる前の私は、何をしようと誰にも遅れをとりたくありませんでした。他人よりも勝ち誇れるのならどんな苦難でも受け入れました。神様を受け入れた後も私の態度は変わりませんでした、なぜなら私は「苦労なくしては利益はない」という言葉を強く信じ、それが私の動機の証明に思えたからです。神様が私に真実を明らかにして下さった時、私はやっと自分がサタンの支配下で生きていた事に気づかされました。



   少し前のこと、教会で私と共に奉仕していた姉妹が指導者のポジションにつく事になりました。その事を聞いて私は落ち込みました。私達は編集者として再任されるまでは二人とも指導者として奉仕していました。そして今その姉妹は再び指導者として無限に成長の可能性がある中で神様に仕えるのに、私は机にむかって孤独に仕事をこなすのです。こんな事をしていて私の将来はどうなるのだろうか?その一方で、「成功へは百万の道がある」という古いことわざを思い出しました。自分のやるべき事を正しくやり遂げる事によって、私自身も成功できるのです。私に必要な事は真理を求めるために、二倍の努力をするという事なのです。もしも私が説教を真理がより上手く伝わるように編集すれば、いつか指導者達は私が真理を理解している事に気付いてくれるかもしれない。そうすれば私は昇進し、未来も同じように明るくなるかもしれない。それに気付いた私は曇り空が晴れたかのように決意を新たにしました。私は仕事に没頭し、その合間には一時も気が緩まないよう、神の御言葉をひたすら読みました。

   ある日、『いのちに入ることに関する交わりと説教』の中にこのような一節を読みました。「神と真理を追い求める事を制限する全てのものはサタンの束縛の一つである。サタンの鎖の一つにでも縛られているのであれば、あなたの人生はすでに彼の支配下にある。」この言葉を聞いた後、自分自身に「私はサタンのどのような支配下で生きているのだろうか?どの毒が私が真理を追い求める事を邪魔しているのだろうか?」と聞かざるを得ませんでした。これらの問いかけをじっくり考えているうちに、自分の今の状況を思い出しました。姉妹が新たな役職についた後、私は消極的にはなりませんでした。私は更に忠実に神様の言葉を読み、神様に祈り、やるべき事を積極的に果たしました。表面上は今まで以上に懸命に真理を求めているようにも見えたが、深く分析すると、私が他人よりも遅れをとる事を受け入れることができたのは、いつかまた前に行けるという願望を抱いたからなのです。ベストの中のベストになりたいという大望が私が消極的にならなかった理由であり、より積極的に真理を求めることができたのですが、私のそのいわゆる真理を追い求めることはただの幻想であり、不純な追求だったのです。自己中心的な結果を達成するため、一瞬の追求をしようとしていたのです。私の神様と過ごした年月を思い起こしてみると、私の全ての犠牲は、「苦労なくしては利益はない」というサタンの毒によって払われたのだという事に気付きました。それによって私は見えない束縛に縛られ、卓越のために努力するようになったのです。すでにポジションがあったのにも関わらず、より高いポジションを求めていた。自分のポジションをなくしたり、前進出来なくなったら消極的にならなかった。真理を求めるために私は犠牲を払う意思があるようにも見えた。しかしながら、それは私が真理を理解し、そのために犠牲を払う意思があったからではなかったのです。単に成功するための犠牲と見せかけていただけだったのです。そこでやっと私の「苦労なくしては利益はない」というスタンスが自分の血管に流れているサタンの毒だったことを理解したのです。私は騙されていたのです。その毒が私の全ての人間らしさを奪ったのです。客観性がなく、私は傲慢で野望的だったのです。このすべてが私自身に起きた事なのです。私の野望は私の向上心の証だと思っていました。私の誰にも遅れをとりたくないという傲慢な考えは自分のモチベーションの表れだと思っていました。サタンの誤った考えを真実だと思い込み、悪い事ではなく名誉な事に見えたのです。このようにサタンに騙されて、善悪の違いがわからなくなるほど私は愚かだったのです。自分がどれだけ哀れだったのか、やっと気付いたのです。そして、どれだけサタンが狡猾で卑劣なのかも学びました。サタンはもっともらしい誤った考えを使い私達を騙して堕落させるのです。私達を迷わせ、彼の人を惑わす計画に私達は忠誠を誓うのです。これらの事は全て私達が知らぬ間に起きるのです。私達は真理を追い求めそのために犠牲を払っていると思っていても、実際は自己欺瞞の中で生きているのです。サタンの毒は本当に強力なのです!神様の啓示が無ければ、自分がサタンによって堕落させられたという真実や、彼の人を惑わす計画にも気付く事ができなかったはずです。神様の啓示が無ければ、私はそのままサタンの支配下で生き続け、そのうち私の全てがサタンに飲み込まれてしまったであろう。

   その時、私は神様の言葉を思い出しました。「神の家で効力者であることを喜ぶ人で、人に知られなくとも勤勉に、良心的な仕事をし、決して何かを得ようとせず、常に与える者であるのなら、その人は忠実な聖徒だと言おう。報いを求めず、ただ正直であるのだから。」(『言葉は肉において現れる』の「三つの忠告」より)神様の言葉がどう振る舞うべきかを示してくださったのです。神様の創造物の一部として、私は無条件に神様を愛して喜んでいただき、心からやるべき事を果たすべきなのです。神様の創造物である者はこのような自覚を持つべきなのです。それを追い求める事は神様の意志に従っているのです。この日から私は真理を求めるためにベストを尽くします。その真理を頼りにサタンの欺きを見破り、支配を振り払うのです。もう私は肉体的な事は追い求めません。その代わりに苦労して誰に知られる事なくても、神様に喜んでいただくために自分のやるべき事を果たします。たとえ最後に何も残らなかったとしても、少しも後悔せずに私はやり続けます、なぜなら私は神様の小さな創造物だからです。創造主を喜ばせる事こそ私の人生の本当の目的なのです。

 

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日曜日に関しては、わたしたちは何問正しく答えられるか

2019-11-13 11:37:12 | 聖書の言葉

一、一週間には何日ありますか。

   こう聞かれたら、皆さんはきっと口をそろえて、「もちろん七日あります。これはだれも知っていますよ。聞く必要がないのではありませんか」と答えます。


二、週の初めの日はいつですか。

   多くの人は考えもせずに、こう答えるでしょう。「もちろん月曜日です。なぜなら、土曜日、日曜日連続して休んだ後、さまざまな職業の人々は一週間の仕事を始め、月曜日ごとに、学生たちが授業に出始め、労働者たちが出勤し始めます……。これらの事実は、月曜日が週の初めの日だと証明するのではありませんか。月曜日は週の始まりではありませんか」と。


   だが、クリスチャンたちは「以上の答えは正しくありません。週の初めの日は日曜日です」と言います。

   だれが正しいかについては、わたしたちはしばらく結論を下しません。まず次の問題を見ましょう。


三、カレンダーの中の毎週の初めの日は本当に月曜日ですか。

   ある人たちは自分の見方を堅持し、「月曜日は週の初めの日です。これは間違いのないことです」と思うかもしれません。では、わたしたちはやはり事実によって問題を説明しましょう。




   カレンダーを見る時、多くの人はびっくりして言うでしょう。「なんと、一週間の七日はこのように配列されるのだ。なぜ月曜日を一番目とせず、日曜日を一番目とするのですか。これはどういうことですか。月曜日は週の初めの日ではないのですか」と。

   しかしクリスチャンたちはこう答えます。「カレンダーの配列にはいわれがあります。それは、わたしたちの想像、観念のとおりに配列されるのではなく、主イエスの働きとは関係があります! 聖書にこう書かれています。『さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った』『この方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ』(マタ28:1、6)。これで分かりますが、週の初めの日は主イエスの復活した日であり、カレンダーの中の日曜日でもあります。なぜなら、安息日は現在の土曜日であり、また週の第七日、すなわち最後の日です。こういうわけで、カレンダーの中の日曜日、すなわち週の初めの日は一番目とされました。それで、月曜日は週の第二日となります。その他はこのとおりに類推すればよろしい……」。


四、なぜ日曜日に全人類がみな休むのですか。

   ある人たちはこう言うでしょう。「日曜日は休日です。わたしたちは何日も連続して仕事をし、非常に忙しいです。だから、日曜日に休み、リッラクスし、或いは私用を片付けるべきです」。

   この問題に関しては、あるクリスチャンたちはこう言います。「わたしたちが知っているように、わたしたち罪人たちを救うためには、主イエスは十字架につけられました。三日後、彼は復活されました。主を信じる人はわたしたちに対する神の救いの恩恵を記念するために、日曜日に主日を守ります。日曜日に休むのは、物見遊山をするためではなく、主を礼拝するためです。実は、日曜日を週の初めの日とするのは、わたしたちが週の初めに神を礼拝するためであり、どんなことをしても心の中で神をあがめ、神に決めさせるためです。そうしてこそ、神の祝福を得られます。例えば、キリスト教を国教とする国々は世界ではかなり強大です。これらの国はさまざまな面で神に祝福されたため、神を礼拝しない国よりさらに多くのものを得ました。そうなるのは、彼らが神をあがめることができるためです。これは、日曜日に全人類がみな休む原因です!」

 

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神の性質の中には、慈しみ、憐れみだけがあるのか

2019-11-12 20:45:02 | 聖書の言葉

   わたしたちが知っているように、律法の時期の末期、人は極めて深く腐敗して、律法を守れないため、律法によって罪定めされ、死刑にされるという危険な状態にありました。受肉した主イエスはわたしたちの罪を担うために、十字架につけられてわたしたちを罪の中から贖い戻されました。彼はわたしたちの罪を赦し、またわたしたちに豊かな恵みと祝福を与えられました。そのため、わたしたちは神が永遠に人を愛し、永遠に慈しみ、憐れみ、簡単に怒らないと思っています。神の性質の中に慈しみ、憐れみだけがあるとでも言うのですか。神に対するわたしたちのこのような認識は一面的ではありませんか。では、わたしたちは神のなさった、律法の時期と恵みの時期の仕事を通して、神のどんな性質がわたしたちが認識していないかを見てみましょう。




   わたしたちは旧約の律法に関する記録を通して次のことを知りました。ヤーウェ神の律法の時期の仕事は、律法を発布し、地上での人の生活を導き、人に律法、戒めを守らせ、人に罪とは何か、どんな人が神に祝福されるか、どんな人が神に呪われるかを知らせることです。律法、戒めに背いたすべての人は神の性質を犯したため、罪定めされ、死刑にされました。ヤーウェ神が言われたように、「しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、今日わたしが命じるすべての戒めと掟を忠実に守らないならば、これらの呪いはことごとくあなたに臨み、実現するであろう。……これらの呪いは、ことごとくあなたに臨み、付きまとい、実現して、ついにあなたを滅びに至らせる。……」(申28:15、45)。これで分かるように、神が律法の時期に発表されたのは激しい怒り、呪いという性質です。しかし恵みの時期に、わたしたちは主イエスが人を愛していて、人類を贖うために十字架につけられて人の罪を担ったのを見ました。当時、人々は主イエスは肉体の中で現れて、贖いの仕事をする神自身であることを認識せず、ユダヤの民はみな彼を見捨てました。ところが、主イエスは極めて大きな愛と寛容、忍耐をもって人の間で働いておられました。主イエスは兵卒たちにむち打たれた時でさえ、父なる神が彼らの無知を赦してくださるようにと祈られました。こうして、わたしたちは神が恵みの時期におもに慈しみ、憐れみという性質を発表するのを見ました。では、わたしたちは主イエスが働かれた時、神が威厳、激しい怒りという性質を発表したかどうかを見てみましょう。主イエスはエルサレムの神殿に入った時、神殿が売り買いをする場所になったのを見られました。すると、彼は両替人の台や、鳩を売る者の腰掛けをひっくり返し、神殿の中の牛や羊を追い出し、しかも彼らが神を礼拝する神殿を強盗の巣にしてしまったと責められました。このような時、神は威厳、激しい怒りという性質を表現されました。彼は神殿の中の盲人や足の不自由な人がそばに寄って来るのを見た時、彼らをいやされました。このことから、わたしたちは神の慈しみ、憐れみを見ました。さらに、ヤーウェ神に仕える祭司長、律法学者とパリサイ人が神の言葉を守り、神の発布された戒め、掟によって神に仕えた時、神殿の中がヤーウェ神の栄光で満ちていて、ヤーウェ神が彼らと共にあり、神の霊が彼らの間で働き、神の慈しみ、憐れみも彼らに伴っていました。律法の時期の末期になって、ユダヤ教のリーダーたちは律法に背いて劣ったいけにえをささげ、いけにえを盗み食いし、昔の人たちの言い伝えについてだけ話し、神の戒めを捨てました。彼らは民を導いて宗教的儀式を守り、口先で神を礼拝していたが、心の中に神の位置がありませんでした。自分の地位と飯の種を守るためには、彼らは民が神に対する認識を追い求めるのを導かないで、ただ聖書の中の、文字の教理を説教していました。だから、主イエスが来て働かれた時、彼らは神の民を神の前にもたらすどころか、かえって主イエスに逆らい、主イエスを罪定めし、人が神に立ち返るのを妨げ、阻止しました。だから、主イエスは「七重の災い」をもって彼らを呪い、罪定めし、「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」と言いました。こんな時、威厳、激しい怒りという神の性質が現されました。最終的に、ユダヤ教のリーダーたちは主イエスは預言の中の来たるべきメシアであり、キリストの現れであることを認識していないので、主イエスを十字架につけ、神の義なる性質の中の激しい怒りに触れました。そのため、イスラエル国が紀元七十年滅びました。主を裏切ったユダは神の性質を犯したため、体が真ん中から裂けて、死にました。これらのことから、わたしたちは神の威厳、激しい怒り、そして神の義なる性質の不可侵性を見ました。

   聖書に記されている物語の中から、わたしたちは神が異なる人に対して異なる性質を発表するのを見ることもできます。わたしたちはみな次のことを知っています。サウルはイスラエル人の初めての王でした。最初は、彼はヤーウェ神の命令に従い、神の言葉に基づいて実行し、神の道を守っていました。そのため、ヤーウェ神の霊は彼と共にあり、彼は神に祝福されて、いつも戦いに勝ち、神の慈しみ、憐れみも常に彼に伴っていました。しかしアマレクを討つ時、彼は神の敵アマレクに属するものを一切滅ぼし尽くせという神の命令に従いませんでした。むしろ彼は自分の意志によって羊の群れと牛の群れの最も良いものを引いて来ました。そして、それらを神への供え物にしようとすると言いました。そのため、サムエルは「聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(サム上15:22)という神の言葉を彼に伝えました。サウルは神の言葉に従うことができないため、聖霊に捨てられ、神の導きを失いました。こうして、彼はもはや勝ち戦をすることができなくなりました。それ以後、彼は苦しみと恐怖の中で生きるようになりました。サウルが神の言葉に聞き従う時、神は彼と共にありました。だが、彼が神の言葉に違反して自分の意志によって事を行う時、神の怒りは彼に臨みました。神の祝福を失ったサウルは弱くなり、無力になりました。最終的に、戦に負けたため自殺しました。このことから、わたしたちは神がこんな時威厳、激しい怒りという性質を表現したのを見ました。

   わたしたちはまたダビデ王のことを見てみましょう。ダビデは小さい頃から羊を放牧していました。かつて石投げ紐と石一つでペリシテ族の巨人に打ち勝ちました。王とされた後、何度もすぐれた手柄を立てました。彼は戦いに出るたびに、ヤーウェ神に依り頼んで相手に打ち勝ちました。彼は神の道を行い、神に畏れを抱いていて、神の言葉に聞き従うのでした。神の霊も常に彼と共にありました。だから、彼が得たのはヤーウェ神の祝福です。それによって、わたしたちは慈しみ、憐れみという神の性質を見ました。しかし、彼はヘト人ウリヤの妻バト・シェバをわがものにするために、ウリヤをアンモン人の剣で殺しました。そしてウリヤの妻バト・シェバを娶りました。ヤーウェ神がダビデの行った悪いことを見たため、威厳、激しい怒りという神の性質は彼に臨みました。ヤーウェ神はダビデを呪って、剣がとこしえに彼の家から去らないようにされました。その上、バト・シェバが生んだダビデの子も死にました。ダビデの息子さえもダビデを殺そうとして追跡しました。このことから、わたしたちは威厳、激しい怒りという神の性質の不可侵性を見ました。そういうわけで、ダビデは一生をかけて神に悔い改め、しかも死ぬまでにほかの女に近づきませんでした。

   以上の事例から、わたしたちは神の性質の中に慈しみ、憐れみもあれば、威厳、激しい怒りもあること、また、神が異なる人に対して異なる性質を発表し、神の性質が人の言動、人の行為、人の心の奥底の神に対する態度に基づいて発表されることを見ました。わたしたちがさっき述べていたダビデを例に挙げましょう。彼が心の中で神に依り頼み、神の言葉に聞き従い、神の道を行う時、神は慈しみ、憐れみという性質を表現し、神の霊も彼に伴っていて、彼に祝福を与えられました。しかし彼が神の目に悪とされることをし、神の道を行わず、神の言葉に違反する時、神の威厳、激しい怒りは彼に臨みました。わたしたちはこれで分かりました。神の慈しみ、憐れみは神の言葉を聞き、神の道を行い、神を畏れ、悪を避ける人に与えられ、神の威厳、激しい怒りは神の言葉に違反し、神の道を行わず、神を畏れる心を全然持たず、神の目に悪とされることをするすべての人に臨みます。神の慈しみ、憐れみと威厳、激しい怒りはすべて神の義なる性質の表現です。彼の義なる性質は、いかなる人も犯してはなりません。すべての良い事物のゆえに、神は慈しみ、憐れみという性質を発表されます。罪悪や神に逆らうことのゆえに、神は激しい怒りを放たれます。だから、人がどのくらいの代価を払っても、どのくらいの苦しみを受けても、どのくらいの仕事をしても、神の怒りに触れ、神の言葉に違反し、神に逆らい、背いたら、神は彼を嫌悪し、またご自分の義なる性質を表現します。わたしたちが神の性質に対する本当の認識を持ってこそ、自分を、神の性質を犯すことから守ることができます。


聖書を読む:賢いサマリアの女

2019-11-11 21:56:05 | 聖書の言葉

   サマリアの女の物語は、多くの人がよく知っています。サマリアの女は水をくみに行った時、彼女から飲み物を求める主イエスに出会いました。主イエスとの対話によって、彼女は主イエスが預言の中の来たるべきメシアだと分かりました。

   一人の普通の女はそんなに多くの聖書の知識を持たず、また宗教の上層部の人に接触しなかったが、神の声を聞き分けられました。わたしたちはこれに驚嘆せずにはいられません! 主イエスが特別に彼女に情けをかけたからですか、それとも彼女に何かの秘訣があるからですか。主イエスは地上で三年半働かれました。その間に、多くの人は主と接触したことがあり、主イエスも多くの人を慈しまれました。しかし、主イエスがメシアだと分かった人は何人いましたか。では、サマリアの女はどのようにして主イエスがキリストであることを知りましたか。

 

 

 

    聖書にこう記されています。「イエスが、『行って、あなたの夫をここに呼んできなさい』と言われると、女は答えて、『わたしには夫はいません』と言った。イエスは言われた。『「夫はいません」とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ』。女は言った。『主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています』。イエスは言われた。『婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない』。女が言った。『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます』。イエスは言われた。『それは、あなたと話をしているこのわたしである』。……女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません』」(ヨハ4:16-26、28-29)。

   あなたには五人の夫がいたという主イエスの言葉は、サマリアの女の心を揺り動かしました。それは彼女がひそかに行ったこと、だれも知らないことだからです。そのため、彼女はこの人が普通の人ではなく、預言者だと分かりました。そして、彼女は自分の心の中の分からない問題を話し出しました。この問題はすなわち、どこへ行って神を礼拝すべきか、神を礼拝する場所が山なのか、それともエルサレムなのか、一体どのように神を礼拝すべきかということです。すると、主イエスは彼女に、神を礼拝する場所が山でもエルサレムでもないと教え、また彼女に「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」とはっきりと教えられました。サマリアの女はこれらの言葉を聞いた後、それは神の声だと分かりました。なぜなら、神だけが人の分からないすべてのことを人に教えられるからです。そういうわけで、彼女は主イエスが預言の中の来たるべきメシアだと分かりました。これも、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(ヨハ10:27)という主イエスの言葉を成就しました。神の羊だけが神の声が分かります。

   サマリアの女の言葉から分かりますが、彼女が主イエスはキリストだと分かったのは、彼女がただ何句かの預言を根拠としているからではなく、彼女が神の言葉に権威と力があることを認識しているからです。主イエスが彼女に五人の夫がいたと言われる時、彼女はこれらのことはいかなる人も話し出せず、神だけが人の心を探ると知っていました。しかも、神は人の心の必要を供給することができます。当時の人々はどのように神を礼拝すべきかを知りませんでした。主イエスは一言で問題を解決し、また神を礼拝することにおける実行の道を指し示されました。

   だから、サマリアの女はすぐ水がめを下に置いて町に行って主を証ししました。サマリアの女は賢いでした。なぜなら、彼女は主の言葉をまじめに聞いたため、主イエスがキリストだと分かったからです。わたしたちも賢いサマリアの女のように神の言葉に留意すべきです。そうしてこそ、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(ヨハ10:27)という主イエスの要求を達成することができます。