街を歩きながらブツブツ言っている人を見かけると、あの人には相手が見えているのではないか、気が狂っているのではないか、と思ってしまう。
母親たちは子供にジロジロ見てはいけません、傍へ行ってはいけません、と注意したりする。
保育園などでは、小さい子たちが一緒に遊んでいるようでいても、それぞれ勝手に何かを言っている場合が少なくないらしい。
内言と外言が分化するのは、語彙が豊富になり、複雑な行動が可能になることと並行しているらしい。
その意味では、人前を気にせず大きな声で独り言を言うのは、精神の退行現象かも知れない。
周りに人がいない時、気がつくと特にストレスがない筈のわれわれでもブツブツ呟いていることがある。
自分の中にもう一人いるのか、それとも人恋しいのか。
動作に気をつけなければいけないときや、難しい問題を解いているときは、声を出して自分の動作をコントロールしたり、考えを確認したりする。
それは自然な知恵かも知れない。
本能的に呟きたくなるのかも知れない。
Webのツイッターは、そうした人間の性向にマッチして成長したサービスだと言えるのではないだろうか。
それなりに目的があり、効果が評価されるべきサービスでもある。
どこの誰か分からないが、受信者がいることを前提にしている点で独り言とは異なると言えなくもない。
しかし、直ぐ脇にいる人をも相手と考えないのであって、言語行動としては独り言と変わりない面がある。
ツイッターが最初に評価されたのはハドソン川の飛行機事故で明らかになったメディアとしての速報性だと言われている。
140文字という制限が、携帯でWebにアクセスするのに好都合だということもある。
パソコンでしかアクセスできなかった時代よりもWeb人口は飛躍的に大きくなることが見込まれているという要因は無視できない。
このことがビジネスにどれだけ使えるかは分からない。
しかし、政治家には美味しいツールである。
オバマはWebを通して選挙で資金と票を集めたと言われるが、ツイッターの寄与が大きかったとか。
これに倣って我が国でもツイッターを利用する政治家が既に少なくないらしい。
鳩山首相がツイッターを始めたら、自民党の加藤代議士が「総理だけはそんなことをしてはいけない」と批判したとか。
中国がツイッターを数日開いて直ぐ閉じたのは、民主活動家を炙り出すためだったとか。
ブログと違ってツイッターへの投稿は匿名でない。
しかし声なき民がWebに書き込みをする心理は、多少とも「名を重んじる」階層の人々のものとは随分異なるのではなかろうか。
コンピュータやWebの文化を普及させた底にはエロ・グロ・ナンセンスがあったことは周知である。
ツイッターの拡大にもそれがプラスに働くのだろうか。
民意の分布を知りたいと、本気で期待する政治家がいたとしても、民からの返信から本当の分布を反映した情報は得難いのではないだろうか。
メール・ソフトが迷惑メールをブロックするように、ツイッターで帰ってくるコメントの玉石を選別する技術がどれだけ進歩するか。
送信する側も、短歌や俳句と同じで、字数が少ないだけに、推敲に推敲を重ねる風になるかどうか。
それとも老人たちが気づかないうちに、既にひとつの文化として熟しつつあるのだろうか。
母親たちは子供にジロジロ見てはいけません、傍へ行ってはいけません、と注意したりする。
保育園などでは、小さい子たちが一緒に遊んでいるようでいても、それぞれ勝手に何かを言っている場合が少なくないらしい。
内言と外言が分化するのは、語彙が豊富になり、複雑な行動が可能になることと並行しているらしい。
その意味では、人前を気にせず大きな声で独り言を言うのは、精神の退行現象かも知れない。
周りに人がいない時、気がつくと特にストレスがない筈のわれわれでもブツブツ呟いていることがある。
自分の中にもう一人いるのか、それとも人恋しいのか。
動作に気をつけなければいけないときや、難しい問題を解いているときは、声を出して自分の動作をコントロールしたり、考えを確認したりする。
それは自然な知恵かも知れない。
本能的に呟きたくなるのかも知れない。
Webのツイッターは、そうした人間の性向にマッチして成長したサービスだと言えるのではないだろうか。
それなりに目的があり、効果が評価されるべきサービスでもある。
どこの誰か分からないが、受信者がいることを前提にしている点で独り言とは異なると言えなくもない。
しかし、直ぐ脇にいる人をも相手と考えないのであって、言語行動としては独り言と変わりない面がある。
ツイッターが最初に評価されたのはハドソン川の飛行機事故で明らかになったメディアとしての速報性だと言われている。
140文字という制限が、携帯でWebにアクセスするのに好都合だということもある。
パソコンでしかアクセスできなかった時代よりもWeb人口は飛躍的に大きくなることが見込まれているという要因は無視できない。
このことがビジネスにどれだけ使えるかは分からない。
しかし、政治家には美味しいツールである。
オバマはWebを通して選挙で資金と票を集めたと言われるが、ツイッターの寄与が大きかったとか。
これに倣って我が国でもツイッターを利用する政治家が既に少なくないらしい。
鳩山首相がツイッターを始めたら、自民党の加藤代議士が「総理だけはそんなことをしてはいけない」と批判したとか。
中国がツイッターを数日開いて直ぐ閉じたのは、民主活動家を炙り出すためだったとか。
ブログと違ってツイッターへの投稿は匿名でない。
しかし声なき民がWebに書き込みをする心理は、多少とも「名を重んじる」階層の人々のものとは随分異なるのではなかろうか。
コンピュータやWebの文化を普及させた底にはエロ・グロ・ナンセンスがあったことは周知である。
ツイッターの拡大にもそれがプラスに働くのだろうか。
民意の分布を知りたいと、本気で期待する政治家がいたとしても、民からの返信から本当の分布を反映した情報は得難いのではないだろうか。
メール・ソフトが迷惑メールをブロックするように、ツイッターで帰ってくるコメントの玉石を選別する技術がどれだけ進歩するか。
送信する側も、短歌や俳句と同じで、字数が少ないだけに、推敲に推敲を重ねる風になるかどうか。
それとも老人たちが気づかないうちに、既にひとつの文化として熟しつつあるのだろうか。