約1ヶ月がたち、こっちでの生活も「日常」という感じになった。
中学校(ここではmiddle schoolという)の最終学年に在籍している娘は
ESLクラスに通っている。ESLは母語が英語ではない子たちのためのクラス。
学年に関係なく、英語とどれくらい慣れ親しんでいるかで3段階ぐらいに分けているらしい。
ESLは英語を教えてくれる時間なのかと思ったら、そうではなく
理科や社会をヴィジュアル中心の教科書で教えてもらえるクラス、
という感じ。文字が少ないので、英語がよくわからなくても、
だいたいの内容はわかるということになるらしい。
「英語」を学ぶ時間もあり、ペーパーバックを1冊、読んでいく。
CDをかけて読んでいったり、先生が読み聞かせをしてくれたり。
単語を調べる宿題や内容についての記述式の宿題がでたりする。
1週間で1、2章ずつ進んで行くから、20ページぐらいは読む。
そして、宿題、結構、時間がかかる。
日本の国語の読解の問題のように、文章内から抜き出して書くという
答え方ができない出題になってる。
それに、そのまま書くのではダメとも言われている。
あいかわらずケンカしながら宿題をやっているわけだけれど、
娘がひっかかるのは、文章内から抜き出して書け、という形式じゃないこと。
そして、回答欄が答えに見合った大きさじゃないこと。
確かに、回答欄が大きいといっぱい書かなくてはいけない感じになっていて、
小さいときは、一行ぐらいでいいという回答欄になってたね。
ここの宿題は先生がタイプしたもので、回答がいっぱいだろうが少なかろうが、
2、3行分改行して次の問題が書いてあるっていう
そっけないもの。回答欄の大きさから回答を推察することはできない。
日本の中学の国語の問題に適応していた娘は、読解問題、得意なほうだった。
「あ、答えはここだな」って見つける技を身につけていた。
私立だったし大学受験に結構、特化しているところもあったと思う。
だけど、その技が通じないイライラが募るんだろうね。
「あなたはどう思ったのか」がいつも聞かれる。
「表現しなさい」ということをさかんに言われている。
表現ということで、ふと思ったのだけれど、
ここでは表現することは周りの人にとって安心でもあるんだよね。
見かけと話す言語が全然マッチしないから。
顔、絶対東洋人、と思われる人が英語onlyだったり、
日本語とは縁の無さそうな見かけの人が流暢な関西弁だったり。
それは何語だろう? と思われる言葉で話していたり。
何かを表現している場を見て
「ああ、英語だ」とか「あ、日本人?」とか了解する。
きっと日本でもひとりひとり背景はいろいろなんだよね。
だけど、それが前面に出ることは少ないから、
気づかないですんでいるということなのかもしれない。
中学校(ここではmiddle schoolという)の最終学年に在籍している娘は
ESLクラスに通っている。ESLは母語が英語ではない子たちのためのクラス。
学年に関係なく、英語とどれくらい慣れ親しんでいるかで3段階ぐらいに分けているらしい。
ESLは英語を教えてくれる時間なのかと思ったら、そうではなく
理科や社会をヴィジュアル中心の教科書で教えてもらえるクラス、
という感じ。文字が少ないので、英語がよくわからなくても、
だいたいの内容はわかるということになるらしい。
「英語」を学ぶ時間もあり、ペーパーバックを1冊、読んでいく。
CDをかけて読んでいったり、先生が読み聞かせをしてくれたり。
単語を調べる宿題や内容についての記述式の宿題がでたりする。
1週間で1、2章ずつ進んで行くから、20ページぐらいは読む。
そして、宿題、結構、時間がかかる。
日本の国語の読解の問題のように、文章内から抜き出して書くという
答え方ができない出題になってる。
それに、そのまま書くのではダメとも言われている。
あいかわらずケンカしながら宿題をやっているわけだけれど、
娘がひっかかるのは、文章内から抜き出して書け、という形式じゃないこと。
そして、回答欄が答えに見合った大きさじゃないこと。
確かに、回答欄が大きいといっぱい書かなくてはいけない感じになっていて、
小さいときは、一行ぐらいでいいという回答欄になってたね。
ここの宿題は先生がタイプしたもので、回答がいっぱいだろうが少なかろうが、
2、3行分改行して次の問題が書いてあるっていう
そっけないもの。回答欄の大きさから回答を推察することはできない。
日本の中学の国語の問題に適応していた娘は、読解問題、得意なほうだった。
「あ、答えはここだな」って見つける技を身につけていた。
私立だったし大学受験に結構、特化しているところもあったと思う。
だけど、その技が通じないイライラが募るんだろうね。
「あなたはどう思ったのか」がいつも聞かれる。
「表現しなさい」ということをさかんに言われている。
表現ということで、ふと思ったのだけれど、
ここでは表現することは周りの人にとって安心でもあるんだよね。
見かけと話す言語が全然マッチしないから。
顔、絶対東洋人、と思われる人が英語onlyだったり、
日本語とは縁の無さそうな見かけの人が流暢な関西弁だったり。
それは何語だろう? と思われる言葉で話していたり。
何かを表現している場を見て
「ああ、英語だ」とか「あ、日本人?」とか了解する。
きっと日本でもひとりひとり背景はいろいろなんだよね。
だけど、それが前面に出ることは少ないから、
気づかないですんでいるということなのかもしれない。