トラさんのただずまいがステキな絵本。
「え、トラさん、来てもお母さん、
ウェルカムなんだ」
「そんなにじゃんじゃん食べちゃっても
お母さん、大丈夫なんだ」
「お母さん、困ってるのキッチンが
ぐちゃぐちゃなところじゃなくて、
夜ご飯がないってところなんだ」
といちいち、現実を生きる主婦目線で、
「え? いいの、いいの?」
と思いながら読み進んだのですが、
子どもは水がなくなっちゃってお風呂に入れず、
お母さんは食料がなくなっちゃってご飯が作れず、
あ、それって疾病利得? なんて言葉が浮かび。
どうなったかというと、
お父さんが帰ってきて、
みんなでカフェに行ってご飯を食べる。
う〜〜ん、これは時々、私もやったぞ。
仕事帰ってきたら、冷蔵庫、空っぽで、
今からご飯炊くとか考えたくなくて、
「今日は外食ね〜〜〜」的なの。
おとぎ話が「ただ、ただ、荒唐無稽」という
ことになっていると、「ふ〜ん、で?」みたいな
反応が自分の中に出てくる。
荒唐無稽でも、その世界での納得感というか、
なるほど、それか! と思える何かが感じ取れるとき、
面白みが見え、興味が惹かれる。
演劇のワークショップに出たとき、
アニシモフ先生が
「その木、どこにあるの? 大きさは?」とか
「その犬、どんな犬? 大型犬? 小型犬?」
みたいに、演じている人のイメージをリアルに
落とし込んで、さらに何を感じているかまで、
丁寧に、見ていこうとしていて、印象深かった。
その人にとって、その場がリアルになるまで
付き合うというか、待つというか。
絵本の中にも似たようなことが起こる。
借りもののイメージだったり、
ありきたりなストーリーをなぞることだったり
すると、その浅さが見えてしまう。
その着想はどこから来たのか、
そこで、リアルに感じていたことは何なのか。
それに気づいていることと
伝える、表現することとは深く繋がっている。
ふと始めたルーティンだけど、
こんなことまで考えることになるとは
思わなかった。深いな。
<昨日のおみおつけ>
息子を置いて出かけようと思ったら、
一緒にくっついて来たので、次の日の朝に
食べることになった白菜のおみおつけ。
「万引き家族」見たんで、お麩入れてみた。
「え、トラさん、来てもお母さん、
ウェルカムなんだ」
「そんなにじゃんじゃん食べちゃっても
お母さん、大丈夫なんだ」
「お母さん、困ってるのキッチンが
ぐちゃぐちゃなところじゃなくて、
夜ご飯がないってところなんだ」
といちいち、現実を生きる主婦目線で、
「え? いいの、いいの?」
と思いながら読み進んだのですが、
子どもは水がなくなっちゃってお風呂に入れず、
お母さんは食料がなくなっちゃってご飯が作れず、
あ、それって疾病利得? なんて言葉が浮かび。
どうなったかというと、
お父さんが帰ってきて、
みんなでカフェに行ってご飯を食べる。
う〜〜ん、これは時々、私もやったぞ。
仕事帰ってきたら、冷蔵庫、空っぽで、
今からご飯炊くとか考えたくなくて、
「今日は外食ね〜〜〜」的なの。
おとぎ話が「ただ、ただ、荒唐無稽」という
ことになっていると、「ふ〜ん、で?」みたいな
反応が自分の中に出てくる。
荒唐無稽でも、その世界での納得感というか、
なるほど、それか! と思える何かが感じ取れるとき、
面白みが見え、興味が惹かれる。
演劇のワークショップに出たとき、
アニシモフ先生が
「その木、どこにあるの? 大きさは?」とか
「その犬、どんな犬? 大型犬? 小型犬?」
みたいに、演じている人のイメージをリアルに
落とし込んで、さらに何を感じているかまで、
丁寧に、見ていこうとしていて、印象深かった。
その人にとって、その場がリアルになるまで
付き合うというか、待つというか。
絵本の中にも似たようなことが起こる。
借りもののイメージだったり、
ありきたりなストーリーをなぞることだったり
すると、その浅さが見えてしまう。
その着想はどこから来たのか、
そこで、リアルに感じていたことは何なのか。
それに気づいていることと
伝える、表現することとは深く繋がっている。
ふと始めたルーティンだけど、
こんなことまで考えることになるとは
思わなかった。深いな。
<昨日のおみおつけ>
息子を置いて出かけようと思ったら、
一緒にくっついて来たので、次の日の朝に
食べることになった白菜のおみおつけ。
「万引き家族」見たんで、お麩入れてみた。