現代の悟りを得るには---荒修行にあらず
ある経営の神様といわれていた人が、「現代の修行は、難行、苦行のような荒修行
をしなくとも、通常の仕事、業務を通じて悟りを得ることができる」と言われた。特種
な僧侶とかは別にしての話である。この話を聞いて30歳手前の時に、仏門に入うかと
なんとなく感じていた時なので、多くの人々のように普通の社会人として悟りをひらけ
るのであれば、わざわざ特殊な境遇にならなくともよければそれに越したことない。
もちろん、普通の社会人として普通程度の仕事ぶりでは悟りなどえられることはな
いだろう。どんな業務においても、その真の目的を徹底的に追及しつつ、その奥行きを
突き詰めていかねばならないだろう。たとえば、職人と呼ばれる仕事は数多くあります
が、40年、50年以上もその道一筋に精進してやって来られた方は、みんな同じこと
を言われます。「やってもやっても、この仕事、この業務の奥行が深く感じるばかりだ」
というのです。つまり、これで悟った、行きつくところまで到達したと思っている間は
まだまだ、道半ばということになりますね。
ただ一つ、いえることは、苦しいこと、悩ましてこと、辛いことなどが発生してし
まった時に、それを引きずらないこと、持ち越さないこと、取りこししないことができ
ればある程度のレベルに到達していると考えてもいいのではないかと、思ったことがあ
る。これすら、実生活において日々発生してくる問題に対して適切に考え方を処理して
いくことは容易ではない。ついつい引きずってしまうことが多い。
でも大切なことは大きな目標を持つべきだと若者には希望するけれども、高齢者に
大志にはそんなことは求めもしないだろう。要は出来るか出来ないかではなく、目標を
もって、到達すべきところを確実に自覚して日々を過ごすことが、我々高齢者にも求め
られていることではないだろうか。 0