青春時代に求めていたもの----真理を得て悟りを得る
20歳ごろから私は、この世の中にはどのような真理があるのか、そしてそれを
得て悟りを得たいとぼんやりと頭の中に湧いてくるものがあった。人は誰もが青春の
理想を求める純粋な精神状態であったと思う。そういう意味からすれば、私も普通の
若者であったのだろう。でも、それが今日(後期高齢者)に至まで思いの強弱はあって
も、真理は何かとか、悟りとはどういう精神状態だろうかと、追い求めている自分が
いるのです。
20歳代には、そういう思いから、宗教や哲学、倫理等の書物を漁って読んでい
た。といっても専門的なものではなく、随想的で読みやすいものばかりであった。悟
りなどというと、修行僧を思い描いたり、宗教に深く入っていくということに成りや
すいが、私は、求めているものと裏腹に、何教であっても信心するということはこれ
までに全く無かったのです。
この歳になって一つの考え方に行きついたように思う。それは、悟りというもの
は自ら求め続けていくことであって、これが真理だ、これが悟りだというものはない
のかもしれないという誠にとり止めないぼや---とした思いです。
若い時に考えたのは、悟りを啓くということは、嬉しい時は嬉しく思い、悲しい
時は悲しく思うことだと思っていた。今でもそれを肯定する。どうしても悟りなどと
いうと、一切の出来事を無の精神で受け入れ、対処することだという、無機質的なこ
とと誤解されやすいだろう。と思っていて、誰にもこのことについて話題にしたり、
教えを乞うたりはしていない。変人扱いされるのを避けたのかもしれない。
要するに、あまり真理とか、悟りということに凝ってしまってはいけないという
思いもあった。何でもほどほどにということが言われるけれども、私のこれまでの人
生の日々は、ほどほどであったものかと思う。これから何年ほど生きられるか全くそ
の目標も医師からの通告もない今、ただ、生きられるだけ生きよう。決して動ける間
は退屈しない日々でありたいと思っている今日このごろです。 0
この言葉いまから3年前に投稿した内容です。読み返してもほとんど変わらない
自分が此処にいます。まだ小商いを続け、防犯パトロ-ルも3年目になります。私の
孫は東京に住んでいますが、娘の結婚が遅かったので、その孫は今小学校4年生にな
ったでしようか。その孫の通学道路のパトロ-ルができないので、札幌の住いの近く
の小学校の下校時に約1時間車で廻っています。これまで大きな問題・事故にも遭遇
しておらないことを安堵しています。車を運転できる間はこれを続けようと思ってい
ます。
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