どんな父親であったのか?
私が4歳の時に、怪我が下で42歳で亡くなりました。4歳だから少しは父の記憶があっても
いいと思うのですが、多分2歳ぐらいの時から父は大怪我のために床についていたのでしよう。そ
のため父に対して何の記憶もありません。一枚の写真があるだけです。間もなく私は77歳になり
ますが、これまで父の事を想ったり、考えたりしたことは殆どなかったのです。それがこの歳にな
って改めて父はどんな人であったのかを想像することがあります。一枚の父の写真は仏壇の中に飾
ってあります。
毎日お水を入れ替えているのですが、鳥打防止を被った父の姿は40歳を超えているように見
えます。その精かもしれませんが、私も父と同じような帽子をかぶっています。大分頭の髪の毛が
薄くなってきたからですが、冬は大変頭が冷え冷えするので、年配者は帽子を被る人が多いです。
船大工であった父は、立派な職人風の腕のいい船大工らしい姿をしています。頑固であったの
か? 口数の少なかったのか?、趣味はなんであったのか?、私が育った家は、淡路島の祖母の家
で、私が生まれた神戸の長田ですが、その直後に空襲があって、家が燃えてしまったために、神戸
から祖母の家に疎開してきたのです。戦争が終っても神戸には帰らず、それは、借地の家であった
ため、神戸には帰るところが亡くなってしまったからです。そういう事情があったために、育った
家には、何にも家財道具やそのたの品物が無かったのです。着の身着のまま疎開したからでしよう。
もし神戸の家で私が育っていたとすれば、随分人生が違った内容になったことだろう。この時
期(戦中、戦後)というのは、少なからず大変な思いをしていたと思われますので、特別自分が恵ま
れない家の子供だとか、父親がいない家庭だから寂しいとか、青春時代にぐれてしまったとかとい
うことは無かったですね。却って、父が不在のため母親が大変な苦労を目の当たりにして育ったの
で、その母に心配をかけられないと、子供心に思っていたと思います。もし、父が健在で父母が喧
嘩がたえない家庭であったとすれば、私はぐれていたかもしれないと社会人になってから思ったこ
ともあります。
何はともあれ、ここまで長生きしてきたのですから、父親の倍は生きて、父の分まで働こうと
の思いがあります。それが父親に対する報告であり、感謝の気持ちになればと考えています。 0
一歩一歩の人生
もう40年も前に札幌の手稲山(約1,000m)の山に登ったことがあった。頂上を目指して
一歩一歩登って、漸く頂上に辿り着いた。山登りの醍醐味は爽やかな風が吹き、景色が高くな
るにつれて木々や草花の様子が変わってくることを感じるのと、苦労して登った瞬間の気持ち
というものは爽快そのものである。
その山に登っている一歩一歩の歩みの中に、石ころや湧水や草木が足場を困難にする。そ
の困難を切り抜けたからこそね到達した爽やかさを味わうことができるのだろう。これを車で
登れる山にたとえ1,000mを超える所に到達しても、足で歩いた総会さとは違ってくるものだ。
人生もこの一歩一歩の歩む姿と同じで、簡単な日々、苦労の経験のない日々では高齢者に
鳴った時の思いは違ったものになるだろう。人性には必ず、泣きたい時、悲しい時、感激する
時がある。その一つ一つ、一歩一歩こそが日々の性格の糧になるのだと思うのです。
とは言うものの、悩みや苦労の真っただ中にいるときには、もうトンネルの灯りが見えて
こないように思ってしまいます。現在の新型コロナ禍はまさにトンネルの中を漂っている思い
がします。何んとかここから抜け出さなければならないと思えば思うほど、苦しくなってきま
す。でも必ずそう遠くない時期に、ワクチンが始り、治療薬も開発されるこを願いつつ、いま
暫く我慢をしたいものです。 0