振り出しに戻る「落陽日記」

旅や日々の生活の一コマ。60代半ば、落陽期を迎えながら気持ちは再び振り出しに戻りたいと焦る日々です。

江川太郎左衛門英龍と斎藤弥九郎

2020-10-03 11:18:47 | 旅行
幕府からの許可を得て韮山に反射炉の建設を始めた江川太郎左衛門英龍は、反射炉の完成を見る前に亡くなってしまう。息子の英敏が代官職を継ぐとともに、反射炉の建設も進めて行く。



その英龍の銅像が近くの土産店の前に、反射炉を背にして立っていた。地元では号の「坦庵」から「たんあんサン」と呼ばれていたらしい。反射炉から数キロ離れた場所に江川邸の屋敷があるので行ってみた。反射炉の入場券とセット購入で¥700だった。





江川邸は韮山代官所を兼ねているが、その支配地となる天領は伊豆だけでなく駿河、甲斐、武蔵、相模などに及び、江戸にも支所となる屋敷があった。祖父が代官の時代には困窮をきわめていたが、質素倹約に努め、英龍の代になってようやく立て直しができたようだ。







反射炉の建設以前から、ここの屋敷で青銅砲の鋳造が行われていて、工作機械なども残っている。鋳物師や砲術師などを雇っていたようだ。



このカマドはパンを焼いたもので、兵糧として携帯できる乾パンを作っていたとある。昭和28年、全国パン協会が英龍を日本の「パン祖」として顕彰した石碑もあった。幕臣として代官を勤めながら大砲の鋳造を目指したり、幕府に国防策を建議したり、このような人物もいたのだと言うのが率直な感想だ。

ところで、江川邸内の展示物を見て初めて知ったのだが、あの剣術道場「練兵館」の道場主「斎藤弥九郎」が英龍の手代として活躍していたことを。剣術に興味はなくても、坂本龍馬は千葉道場、桂小五郎は練兵館で、それぞれ塾頭を務めていたことは、明治維新関係の小説や書物を読んでいたので知識にはある。桃井道場、千葉道場、斎藤道場が江戸の三大道場と呼ばれていたが、その道場主の一人斎藤弥九郎が江川家の手代とは意外だった。

二人は若い時代に同じ道場で修行していたが、練兵館の設立を英龍が支援したようだ。剣豪のイメージだったが、幕末の混乱期に開明的な思想で幕府にも影響を与えた英龍と行動を共にしていたことに、新鮮なショックを受けた。

幕末から維新にかけての人物に関する書物や小説は多くあり、それなりに読んでいたつもりだが、江川太郎左衛門英龍の本には触れたことがなかった。市立図書館で検索して2冊見つけたので、早速借り出し、今読んでいるところだ。