物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

源源合戦の事 2

2020-05-07 | まとめ書き

源源合戦の事 1の続き、ナンバーは「源源合戦の事1」の表を参照

1180 治承4年 源頼朝 親戚 佐竹秀義ら 親戚 常陸佐竹氏は義光の子孫。頼朝勢が佐竹氏を討った(金砂城の戦い) 佐竹秀義は奥州へ逃げる
1183 寿永2年 源頼朝 源義広 叔父 義朝弟義広は志太先生と呼ばれ常陸志太荘にいた。頼朝に反発するも頼朝勢に敗れる(野々宮合戦) 義広は義仲軍に加わる(義広は義仲の父義賢の同母の弟)
1184 寿永3年

源義経
範頼

従兄弟 源義仲 従兄弟 頼朝の代官として義経・範頼が義仲を討つ
1184 寿永3年

源頼朝

父の従兄弟
婚約者の父
源義高 従兄弟の子
娘の婚約者
義高は義仲の嫡子、義仲が討たれ鎌倉を逃げ出すが捕まり殺される
1184 寿永3年 源頼朝 親戚 一条
忠頼
親戚 一条忠頼は武田信義の嫡男。武田信義は義光の曾孫。忠頼は暗殺される
1185 元暦2年 源頼朝 親戚 多田行綱 親戚 多田行綱は摂津源氏である。多田荘の所領を没収・追放処。
1189 文治5年 源頼朝 源義経 義経奥州衣川で敗死
1193 建久4年 源頼朝 源範頼 富士の裾野巻狩りでの曽我兄弟の仇討事件で「失言」修善寺幽閉の後殺害
1219 建保7年 公暁 源実朝 叔父 頼家の子公暁が実朝を暗殺する

保元の乱から治承寿永の戦乱の時まで話は飛ぶ。これまでとは違い、直接・間接の戦いであれ、⑯以外の勝者は全て覇者頼朝だ。

1180 治承4年 石橋山の敗戦から一転、大軍を率い戻ってきた頼朝は、富士川の合戦に戦にならぬほどの敗走した平家軍を追うことなく、向きを変え、常陸の佐竹氏を討つ。⑧金砂城の戦いである。三浦・千葉・上総の面々が佐竹討ちを主張したという。関東での武士団の所領争いの方が平家追討より先行する問題だったのだろう。
ところで、この佐竹氏もまた源氏である。祖は義家の弟新羅三郎義光。②の常陸合戦で甥義国を追い返し、③のこれも甥義忠殺害事件の真犯人とされる義光である。義光の孫の代から佐竹郷に住み佐竹を名乗った。佐竹秀義はそこから3代目。佐竹は長く上総広常と相馬御厨を巡り争ってきた。戦いの当初、2代目当主の兄は上総広常に殺された。これでは簡単に頼朝軍に降るわけにはいかないだろう。義秀は奥州合戦の前には頼朝の軍門に降るのではあるが、金砂城の戦いに敗れた時には奥州へ逃げる。

金砂城の戦い直後、頼朝は義広・行家の二人の叔父に会う。行家は以仁王の令旨を携え、既に頼朝とは会っていたはず(行家は義広の所にも我兄なればとて令旨を届けている)だが、義広とは初対面だったろう。義広の本拠信太(志太、志田)荘は現在の稲敷市であり、霞ケ浦の南、常陸とは言っても佐竹の本拠とはかなり離れてはいるが、利害こもごもあった事だろう。どう受け止めたかはわからないが、少なくとも頼朝とは合流しなかったのは、気に食わなかったということだろう。
義広は為義の三男であり、義賢と同母だ。長兄義朝との関係はわからない。平治物語には行家と共に義朝に従っており、最後義朝と別れ落ちているのだが、眉唾の気がしてならない。角川ソフィア文庫の「保元物語」の註には義広は河内長野にいたとある。「山塊記」にそうあるそうだ。それも不思議な気がしてしまう。保元の乱から平治の乱までわずか3年、義広は兄弟のほとんどが参じた為義方へは行かず、また関東武士団の多くを動員した義朝方へもつかなかった。野口実の「源氏と坂東武者」によれば全てが義朝との主従関係があった訳ではなかろうが、保元には全関東と言っていい地域から多くの武士団が参集しているが、平治の乱ではわずかに三浦・山内首藤・渋谷・上総・長井(斉藤)・足立・平山を数えるのみだ。平治の乱は清盛熊野詣の隙を突いたクーデターであったので、これらの関東武士はたまたま在京していたらしい。義広もたまたま関西にいたのだろうか?しかし、保元の乱の前年、同母の兄義賢は義朝子義平に殺されている。関東にいようが関西にいようが、義広が義朝に合流するだろうか。
ともあれ治承4年の時点で、義広は頼朝を斜めに見た。そして寿永2年(1183)、義広は鎌倉を攻める兵を挙げ、下野の野木宮へ向かう。だがこれって本当に鎌倉を攻める気だったのか?信太から野木宮は西北方向に直線距離で65km程である。鎌倉を討つというより、下野の足利と一緒になり、上野、更に信州の義仲に合流しようとしたように見える。行家は既に義仲を頼って行っている。頼朝の義仲を討つという信州入りに、義広の動向も関係していたのだろう。下野は足利氏の地盤であり、足利もまた源氏である。②の常陸合戦で新羅三郎義光に負けた義家四男義国の子孫である。以仁王の挙兵時、宇治川の橋板を落とし平等院に立てこもる源三位頼政を攻める平家軍の先頭に立ち、馬筏を組んで宇治川を押し渡ったのは若き足利忠綱であった。おいそれと頼朝の下に付こうとは思われない一族だが、彼らも所領をめぐり様々な利害関係があったらしい。足利の一族の小山朝政は義広に味方につくと見せかけ、だまし討ちに義広軍を破る。野木宮合戦に敗れた義広は逃げ出して義仲の下へ行く。義広は義仲が粟津で戦死したのちも抵抗したが、殺されたらしい。ただ平家物語では行家と共に義経が九州へ向かおうとした船に乗り難破したことになっている。

寿永2年3月、義仲・頼朝の中が一触即発となる。
文字通り日本史上初の東国政権・武家政権を制度として打ち立てた頼朝だが、自ら兵を率い、合戦に赴いたことは少ない。挙兵と石橋山の戦いはともかく、房総半島を回り、鎌倉入りするまでのは大変な緊張を強いられるものではあったろうが、合戦とは言えない。富士川の戦いもとても合戦と云えるものではなかった。しかし常陸の佐竹討ちは親征だ。
そして頼朝は信州善光寺まで兵を率いてやってきた。という話自体どっかおかしい気がするが、物語ではそうなっている。この時は合戦になっていない。上田の依田城にいた義仲が頼朝との戦いを好まず、今井兼平の猛反対を押し切り、嫡子義高を送ってまでして頼朝との衝突を避けたからだ。
戦っていたらどっちが勝ったろう、義仲に分があったのではないか、と義仲贔屓の私は思ってしまう。そして頼朝のもとにいた京下りの官僚どもを我手に収めてしまえば、京都であれほど苦しまずに済んだのではないか。ただどちらも大きく傷ついただろう。平家物語の義仲の言「平家に笑われんとは思うべき」は真っ当過ぎた。
もう一つの頼朝の親征は奥州攻めだ。既に義経の死んだ後にも関わらず義経を口実にしていることを思えば、頼朝の親征はみな一族がらみだ。

寿永2年(1183)5月倶利伽羅峠に平家の大軍を破って以仁王の遺児を奉じ北陸路を抜け入京した。寿永3年1月まで、1年に満たぬ時を木曽義仲は文字通り疾風怒濤に駆け抜ける。いっときの栄光と失意と敗残。⑩ ここに記すには余りありすぎる義仲だ。

⑪は合戦ではない。義仲の子義高が頼朝に殺された。義高は頼朝長女大姫の婿ということになっているが、実質上人質であった義高は、父と頼朝が敵対し、父が死んだとなれば命はない。だから大姫も必死で逃がそうとし、義高も逃げ出したのだろう。あまりに幼い夫婦で子供のできようもなかったであろうが、頼朝の孫にして義仲の孫、というのは見てみたかった。
ところで義高が鎌倉を脱出する際、海野幸氏という同年代の側近の少年が身代わり役を務める。頼朝はこの少年を殊勝であると許し家来に加える。海野幸氏は弓の名手として知られるようになり、「曽我物語」の中にもちらりと登場する。幸氏の父(兄?)幸広は義仲の信頼する部下であり、平家追討の侍大将を務めるが、平家得意の海戦となった水島の戦いで敗れ、戦死している。

鎌倉時代初期、北条氏による有力御家人、和田(三浦)・梶原・畠山・比企の掃討はよく知られているけれど、始まりは寿永2(1183)年12月の頼朝による上総広常殺しではないだろうか。上総広常は保元・平治の乱を義朝方で戦い、石橋山で敗れ安房を巡ってきた頼朝を迎え入れた。不遜な言動が多かったとされる広常だが、彼がそっぽを向いていたら、頼朝は鎌倉入りもおぼつかなくなっていたと思われる。頼朝・広常双方、それが分かっていたのだろう。少しでも権威を傷つけるものは消す、それも真っ向から非を唱えて討つのではなく、謀殺する。広常は梶原景時とすごろくに興じていたところを天野遠景に殺された。
このやり口は、次の⑫一条忠頼殺しにも引き継がれる。というか、忠頼殺しは広常殺しにそっくりだ。一条忠頼は武田信義の嫡男、甲斐源氏だ。新羅三郎義光の系統になり、常陸の佐竹氏とは同族だ。佐竹攻めをどう見ていたのか、義仲とも関係はどうだったか知らない。ともかく頼朝の反乱軍に同盟に近い関係で加わり、富士川の戦い直前、平家の大軍を解体寸前に追い込んでいた。そして駿河を実効支配した。
「威勢を振ふの余りに、世を濫る志を挿む」と言われて殺された忠頼だが、広常以上の自負があり、家柄も頼朝に劣るとは思っていなかったろう。1184年(寿永が元暦に改元)6月、忠頼は鎌倉で酒宴の最中に暗殺される。最初は工藤祐経が討手とされていたがびびった。脇から小山田有重出てきて忠頼の気をそらし、天野遠景が討ち取ったという。
工藤祐経は「曽我物語」の敵役だが、武芸者ではなかったようだ。

⑬は合戦ではなく、さらに暗殺でもなくただの追放劇である。
多田行綱というのは平家物語の鹿谷の陰謀事件での密告者としてあまり格好の良くない役を振られている。義仲に呼応するが、法住寺合戦では後白河方、義経が来ると一緒に義仲を攻め、平家追討にも加わる。一の谷も鵯越えの奇襲攻撃も、義経ではなく行綱だともいわれる。なるほど摂津源氏の行綱の方がはるかに地の利はあっただろう。義経が都落ちする際は大物浦へ向かう一行を河尻の戦いで邪魔をしている。どうも腰が据わらないというか、どっちつかずで信が置けない人物に見える。京武者と云えばそうなのだろうが、同じ摂津源氏でも頼政の和歌詠みとしての優雅な貫禄、老いの一徹を感じさせる死にざまに比べると明らかに劣る。
しかし、この多田行綱は清和源氏の正当な嫡流と云える。実質的な清和源氏の祖多田満仲の長男が鬼退治伝説に彩られる頼光で、満仲以来摂津を本拠地とした。頼光の弟頼信が河内を本拠とし、頼信の孫が義家で、頼朝は河内源氏だ。
清和源氏としての源流を求めるならは多田満仲の故地、行綱所領こそ求めなければならない。行綱が小人といえども放置してはおけなかったのだろう。


⑭ 文治5年(1189年)閏4月義経死す。文治2年都落ち以来、彷徨っていた義経は奥州平泉に逃げ込む。10代からの恩人藤原秀衡は暖かく迎え入れるが文治3年10月北方の王者秀衡は死ぬ。諸兄国衡との軋轢も抱えた泰衡は頼朝からの圧力に耐えかね、衣川の義経館に攻め寄せる。義経は自害した。
なんと頼朝の奥州攻めはこの後から始まる。泰衡には義経を討てば許されると示したはずである。「弓箭をふくろにすべし」と後白河も云った。しかし頼朝の目的は奥州征伐、都市平泉の壊滅であった。これまで義経を匿ってきた事を言い立てて奥州攻めを敢行する。それは自らを八幡太郎義家になぞらえ、示すことでもあった。頼朝は義家と同じ旗指物まであつらえたという。つい最近まで不便な湿地の多い海人・野鼠の棲み処と云われた田舎に過ぎなかった鎌倉を東日本の中心とするためにも、物流・文化の中心、富の三点セットを持つ平泉を破壊しなければならなかった。(木村茂光「頼朝と街道」)


奥州征伐を終え、建久3年(1192)には頼朝は征夷大将軍となる。中年以上の年代の人なら「いい国作ろう鎌倉幕府」と覚えたはずである。翌建久4年、頼朝は大規模な巻狩りを催す。名実ともに鎌倉殿を頂点とする政権が樹立したのだ。軍事演習を兼、鎌倉殿の威勢を示す大イベント。頼朝嫡男頼家が初めて鹿を射た。大団円で終わるはずだったこのイベントの最終日、あろうことか、鎌倉には頼朝が死んだ、という知らせがもたらされる。起こったのは曽我の仇討と呼ばれる事件であり、もちろん頼朝は無事だった。しかしこの誤報には単に混乱していた、という以上の不穏さを感じさせるものがある。余りに容易く曽我兄弟は陣屋に入り込んだ。曽我五郎は頼朝の居室まで入ってきたのだ。手引きがいて、頼朝の首を狙った可能性・・・あまりに早い鎌倉への知らせ、真偽不明の混乱というより、頼朝は殺される前提で使者が走ったのではないか。当然頼朝は疑っただろう。まして、弟が「鎌倉殿が没しても私がいる」などと口走ったと聞けば・・・俺が死んだらお前がどうすると! かくて範頼は修善寺に閉じ込められて殺される。⑮

もはや源氏の主だったものは誰もいない。その頼朝も5年後には死ぬのだが、死因もよくはわからない。日本史上大きな転換点を乗り切り、間違いなく新しい地平線を見た10指に入る歴史上の偉人、源頼朝は間違いなくそれだ。しかし、脳溢血か心臓発作で落馬して死んだ、というのが一番穏当な説。もちろん暗殺説もある。何しろ吾妻鏡は建久9年の分がないのだ・・・

若くして頼朝を継いだ嫡男頼家、御家人たちと、特に北条とうまくいかず、修善寺に閉じ込められて殺されるのだが、その前に実朝擁立の動きに反発した頼家は、阿納全成を関係していたとして殺す。全成は義朝の七男、義経の同母兄であり頼家の叔父である。北条政子の妹阿波局と結婚していた。全成の死で義朝の男子9人はすべて死んだ。

最後⑯は3代将軍実朝が2代目将軍で実朝兄の頼家の子公暁に殺された、というもの。源氏得意の叔父VS甥のパターン。公暁に手引きがいたことが強く疑われはするのだけれど。

コメント

小倉百人一首と平家物語

2020-05-07 | まとめ書き

 小倉百人一首には歌番号があり、おおむね時代の順で並んでいる 
 選者の藤原定家その人が平安末から鎌倉時代を生きた人なので、平家物語の時代をも含めたものである 
 76番の法性寺入道前関白太政大臣というのは藤原忠通の事である。平家の栄華と没落の時代は主に彼の子供たちの時代ではあるけれど  大きな時代の変換点だった保元の乱に大きくかかわった彼くらいから始めるのが順当だろう 。
 99番は後鳥羽院である。平家物語に出てくる彼はまだ幼児である。安徳に代わる帝として、後白河の傀儡として登場する。 
 この76から99の24人だが、多少ググっても歌人としての経歴しか出てこなかった人たちは書きようがない。 
 しかしその人ではなく主人や親が平家と関わり合いの強い人はそれについて書く 
 



76  わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもゐにまがふ おきつしらなみ 
   法性寺入道前関白太政大臣=藤原忠通 
この歌は好きである。「わたのはら」で始まる歌は他に小野篁の 「わたのはら やそしまかけて こぎいでぬと ひとにはつげよ あまのつりぶね」があるのだが、流罪になる篁の悲壮感もいいが忠通の伸びやかなのもいい。
忠通は和歌はよかったが、摂関家の家長としての力量はどうであったか、少なくとも父忠実は力量なしと見たようである。忠実の自慢の息子は忠通弟の頼長で、頼長は学才に秀でていたが和歌は苦手だったようだ。だから忠通は和歌に励んだのかもしれない。
忠通は他の氏族との政争よりも父・弟との争いに忙しい。ただ近衛の死後の後白河の即位に関して等、美福門院と手を結び素早い動きを見せている。
男児がいないとして、頼長を養子に向かえざるを得なかった忠通だが、後には続けて多くの子に恵まれている。基実・基房・兼実・慈円などである。基実は若くして死ぬが二条帝を支え後白河と対抗する人材であった。基房は松殿として知られ「殿下の乗合」の一方の主人公であり平家とは相いれず義仲を婿にしたりする。慈円は「愚管抄」の作者、更に平家物語の成立に深くかかわったとされる。兼実はその日記「玉葉」がありこの時代とは切っても切れない。


77  せをはやみ いはにせかるる たきがはの われてもすゑに あはむとぞおもふ 
     崇徳院
この歌も好きである。「むすめふさほせ」一字決まりの歌であるので覚えたのは早い。加えて恋の一途さを充分描いている。日本一の大魔王の歌とも思えない。この人は鳥羽の子ながら実は曾祖父白河の子という噂あり、父に嫌われたという。これは「故事談」に書かれ広く流布された話であるが、元木泰雄編「保元・平治の乱と平家の栄華と」の冒頭の佐藤健治の「鳥羽院・崇徳院―崇徳院政の夢」の実証的な研究がこの蒙を破る。歴代の天皇親子の付き合い方、鳥羽-崇徳の付き合い方を細かく調べ上げ、鳥羽は決して崇徳を嫌っていなかったと論証する。むしろ親しい親子関係であった。しかし最晩年の鳥羽が崇徳を遠ざけたことは事実であり、これは美福門院の讒言に他ならないだろう。後妻が前妻の子の相続を妨げる策謀と言えばそれまでだが、最晩年床に伏し、頭脳も朦朧となった鳥羽には利いたのであろう。考えてみれば昭和の事件について同時代資料に近いというだけの理由で週刊誌の記事を論拠にしたものが信じられるだろうか。「故事談」は「故事談」で価値があるが、面白おかしく流布されすぎたようである。
しかし、崇徳の怨霊が祟りをなす、という畏れは平家物語の時代、即ち心疚しい後白河の時代を通して世を覆うのである。


78  あはぢしま かよふちどりの なくこゑに いくよねざめぬ すまのせきもり 
   源兼昌

 この歌もわりに好きなのだが、源兼昌と平家物語の関係を見いだせなかった。


79 あきかぜに たなびくくもの たえまより もれいづるつきの かげのさやけさ
    左京大夫顕輔 
    この歌はもっと好きである。シャープな月影。顕輔は白河の近臣だったという。


80 ながからむ こころもしらず くろかみの みだれてけさは ものをこそおもへ 
    待賢門院堀河
歌は色っぽいというのか女の情念が黒髪にあいまり纏わりつくというのか、ちょっと苦手かも。「みだれそめにし」とよくお手付きをした。
 待賢門院堀河という人については知られた歌詠みというしか分からないが、彼女の仕えた待賢門院は無視できない。白河の養女にして鳥羽の后、崇徳・後白河の母である。大変な美少女だったらしいが、ゴシップはかなり早くからあった。藤原忠実の日記「殿記」によれば長子忠通との縁談を素行を気にして断ったとか。これは崇徳の出生と直接関係はしないが「故事談」の補強とはなっただろう。どのような美女もいつかはその美貌に影が差す。鳥羽の寵愛はいつしかより若い美福門院に移る。


81       ほととぎす なきつるかたを ながむれば ただありあけの つきぞのこれる
     後徳大寺左大臣
   藤原実定の事である。これは平家物語でおなじみの人物。近衛の后にして二条に請われ二代の后となった多子の弟である。且つ、清盛の歓心を引かんがため厳島神社に詣で、内侍たちを歓待するところが描かれる(第2巻「徳大寺厳島詣出の事」)更に福原遷都について行ったものの新都造営は道半ば、京都が恋しくて、姉多子を訪ねるのである(第5巻「月見の事」) ほととぎすの歌は一字決まりである故早く覚えはしたが、面白い歌とも覚えなかった。しかし、多子とのやり取りを踏まえると、時局に振り回され、ただ月ぞ残れると詠嘆するしかなかった、と云うのが観取され、また違った趣が感じられる。


82   おもひわび さてもいのちは あるものを うきにたへぬは なみだなりけり 
    道因法師 
作者について知るところはない。歌留多を取るときには 「おもひわび」と「うらみわび」が常にごっちゃになり嫌いだった。


83   よのなかよ みちこそなけれ おもひいる やまのおくにも しかぞなくなる
    皇太后宮大夫俊成 
藤原俊成、定家の父にして忠度の師。忠度は寿永2年の都落ちに際し、俊成に歌集を託す。(第7巻「忠度都落ちの事」)勅撰集が編纂される時には一首なりとも、という忠度の願いを俊成は「さざ波や滋賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな」の一首を読み人知らずで入れることで応える。「よのなかよ」よりも「さざなみや」よりも私は忠度の鎧に結ばれていたという「行き暮れて木の下影を宿とせば 花や今宵の主ならまし」の方が好きだ。


84   ながらへば またこのごろや しのばれむ うしとみしよぞ いまはこひしき 
        藤原清輔朝臣 
六条流の歌人で御子左の俊成の対抗馬だったというが知るところはない。今見てもなにやら難しい歌で子供のころは「憂し」を牛と思い何の歌かわからなかった。牛車の牛と一緒に見ていた世の中?・・・


85   よもすがら ものおもふころは あけやらで ねやのひまさへ つれなかりけり
    俊恵法師
かるたの読み札の俊恵の肖像は酷くしわくちゃのじいさんで、坊主めくりの中でも疫病神のように思えた。鴨長明の和歌の師だそうだ。


86   なげけとて つきやはものを おもはする かこちがほなる わがなみだかな
    西行法師 
数多い西行の歌の中で何故この歌が百人一首?というのは多くの人が抱く疑問だろう。なんだか妙な理屈で月と涙をこじつける。西行は平家物語には登場はしない。ただ、北面の武士になったのは清盛と同期であり完全な同時代人である。平家物語の海道下の小夜の中山は明らかに西行の「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」をなぞっている。西行の歌より重衡の鎌倉行の方が先行するはずなのではあるが。

徒然草第10段に西行と後徳大寺実定との話が出てくる。81番ほととぎすの実定である。西行は実定邸の屋根に鳶除けの縄が張ってあるのを見て「鳶のゐたらんは、何かはくるしかるべき」と非難し、行くのを止めたという話がある。兼好は他の家での屋根の縄の理由を鳥が池の蛙を取らないようにするためと聞き、後徳大寺にも何か理由があったのだろうとしている。


87   むらさめの つゆもまだひぬ まきのはに きりたちのぼる あきのゆふぐれ 
    寂蓮法師
 俊成の養子となった歌人とか。一字決まりの始めの歌、いい歌だと思う。


88   なにはえの あしのかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや こひわたるべき
    皇嘉門院別当
「なにはえの」「なにはがた」「みをつくしてや」「みをつくしても」上の句・下の句共にお手付き頻発の地雷札。作者についてはよくわからないが仕えた皇嘉門院は崇徳中宮で忠通の娘であるので保元の乱では父と夫が対立したことになる。子供はいなかった。


89   たまのをよ たえなばたえね ながらへば しのぶることの よわりもぞする 
    式子内親王
後白河の娘、以仁王の同母の姉。加茂の斎院。和歌が苦手で今様狂いの父とは違い、和歌に才能があったようであるが、後鳥羽が評したと云う「もみもみ」とした感じというのが私はおそらく嫌いである。


90   みせばやな をじまのあまの そでだにも ぬれにぞぬれし いろはかはらず
    殷富門院大輔
作者はよく知られた歌人らしい。この歌は院政期というより、王朝、摂関時代の女房と貴族のやり取りの歌のように思える。
仕えた殷富門院(亮子内親王)は後白河の娘、以仁王の同母姉、つまり式子内親王と姉妹である。


91   きりぎりす なくやしもよの さむしろに ころもかたしき ひとりかもねむ
    後京極摂政前太政大臣
九条良経の事である。九条兼実の子。歌は面白いとも何とも言いようがないが、少なくとも百人一首唯一虫が出てくる。百人一首に出てくる動物は鹿と鳥くらいだ。

この人は38歳で急死しているが殺された可能性が高いそうな。しかも天井から槍で突き殺された説もあるそうな。


92   わがそでは しほひにみえぬ おきのいしの ひとこそしらね かわくまもなし
        二条院讃岐
  源三位頼政の娘にして二条帝に仕えた。仲綱と同母。頼政と同じく和歌を得意とした。この歌は評判だったらしく沖の石の讃岐と呼ばれている。讃岐という名前がどこから来たかわからない。少なくとも頼政は讃岐とは関係ないようだ。二条院亡き後どうしたかはよくわからないようだ。結婚したのだろうが、諸説あるようだ。頼政同様長生きで、頼政から引き継いだ若狭小浜の宮川保の事で70余歳で鎌倉へ訴訟に赴いた。


93   よのなかは つねにもがもな なぎさこぐ あまのをぶねの つなでかなしも
    鎌倉右大臣
三代将軍実朝の事だからさすがに平家物語とはこじつけにくい。歌は「大海の 磯もとどろに 寄する波 われてくだけて さけて散るかも」の方が好き


94   みよしのの やまのあきかぜ さよふけて ふるさとさむく ころもうつなり
    参議雅経
飛鳥井雅経の事である。後鳥羽の近臣であり頼朝にも気に入られていたようである。


95   おほけなく うきよのたみに おほふかな わがたつそまに すみぞめのそで 
    前大僧正慈円
平家物語の成立に切っても切れない縁があるであろう天台座主の慈円。大懺法院を作る。徒然草で平家物語の作者と伝えられる信濃前司行長も扶持した。但し藤原行長、下野前司であったらしい。この人が慈円の援助で書いたと。もちろんいろんな説がある。慈円その人を作者に充てる人もいる。
慈円は知られた歌人だというが、この歌は好きではない。


96   はなさそふ あらしのにはの ゆきならで ふりゆくものは わがみなりけり
    入道前太政大臣 
西園寺公経の事。頼朝とは親しく関東申次として朝廷で力を持つ。承久の変でも後鳥羽院に従わなかった。

この歌の趣旨は小野小町の「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」にそっくりだ。そしてそれ以上のものではない。


97   こぬひとを まつほのうらの ゆふなぎに やくやもしほの みもこがれつつ 
    権中納言定家 
小倉百人一首の選者と知られる歌人だが、平家物語との関わりは知れない。この歌は定家の作と知るまでは王朝時代の女房の歌だとばかり思っていた。よくわからないが、この歌が自分で選ぶほど会心の出来だったとでもいうのだろうか? 確かに言葉の調べ流麗にして、待つから松へ、浜辺の風景から塩焼へ、やくやもしほ と歌い上げていく魔法のような言葉遣い。でもなんだか言葉遊びのようだ。


98   かぜそよぐ ならのをがはの ゆふぐれは みそぎぞなつの しるしなりける
    従二位家隆 
定家の従兄弟だそうだ。この歌は好き。「ならのをがは」は下賀茂神社の中にある。


99   ひともをし ひともうらめし あぢきなく よをおもふゆゑに ものおもふみは 
    後鳥羽院
後鳥羽院に同情的になれないのはこの歌が好きではない所為もあるのではないかと思う。「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」だったら嫌いにはならなかったかも。
平家に出てくる後鳥羽は高倉の第四皇子尊成親王で安徳の弟、まだ4歳の幼児である。高倉の4人の男児の長子は安徳で西海にある。2番目も平家が連れて行った。京にいるのは3男・4男。義仲は以仁王の遺児北陸の宮を奉じるのであるが、後白河は強引に四宮の即位を決める。この時平家物語によれば後白河は三宮・四宮を召す。三宮は大いにむずかり、四宮はにこにこと後白河の膝に乗ったというのだが、見知らぬところへ連れてこられ、見知らぬ年寄に近づかせられたら泣きわめくのも幼児の正常な反応だと思う。(第8巻「山門行幸」)
後鳥羽は安徳が退位しないまま、三種の神器を欠くまま即位する。
次に後鳥羽が平家物語に出てくるのは第12巻「六代の斬られ」である。後鳥羽は遊び好きの暗君とある。文覚は毬杖冠者と後鳥羽をののしっている。文覚は後鳥羽を退位させ高倉の二宮を即位させようと画策する。文覚は佐渡へ流されるのだが、平家物語では隠岐へ流されたこととし、後鳥羽を「文覚が流されるところへ向かへもうさむずる」と言わせ、承久の変で後鳥羽が隠岐に流されたことと合わせている。

百人一首の100番目は順徳院、後鳥羽の子供である。
「ももしきや ふるきのきばに しのぶにも なおあまりある むかしなりけり」
しょうもない歌と思ってきたが、一つの時代の終わりの詠嘆と思えばそれなりに。

 

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