物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

鎌倉

2020-05-22 | 行った所

大船駅前のホテルから鎌倉方面へ。鎌倉は要害の地というけれど、それは手狭で不便とほぼ同義だ。

長谷の御霊神社、鎌倉権五郎景政を祀る。
大きな神社とは言えないが、結構立派な社殿で境内もよく整備されている。
屋根に並び矢の紋がついている。

境内の前、鳥居の後ろに江ノ電が走る。

由比若宮八幡(元八幡)へ行こうとするのだが、地図上では直近にいるはずなのだが行きつけない。諦めて「岐れ道」付近に出てもらいそこで車と別れる。
若手道近くの南へ入る小路で大御堂橋を渡る。田楽辻子の道というらしい。
文覚の館跡の碑がある。

平家物語では超人的修行譚が語られ、何故か平維盛の子六代が気に入り、頼朝に掛け合い六代を助ける文覚である。後白河の院宣を出してみたり、頼朝の父義朝の頭蓋骨を持ってきたり(最初のは間違いだった、と云って2回も!)うさん臭さ満載なのだが、頼朝の対応は丁寧だ。文覚は俗名遠藤盛遠という武士だ。渡辺党というから摂津源氏だ。上西門院に仕えていたというから、若いころから頼朝とは互いに見知っていた仲だろう。さらに高雄の神護寺の再建を後白河に強引に請い、伊豆へ流されているからそこでのコネクションもあったのだろう。後鳥羽と合わず、高倉帝の二の宮(安徳と共に平家と都落ちしていた)を即位させようと画策、佐渡へ流される。(平家物語では後鳥羽と同じ隠岐が流刑地となっている)波乱万丈の生涯だがそれ程の興味は持てない。

住宅街の道を川沿いに登っていくと勝長寿院跡がある。


碑と五輪塔が2基、義朝と鎌田正清のものだ。

大御堂というのは勝長寿院の事だと思われるのだが、寺域も不明だ。手入れもいいとは言いかねる。鎌倉殿肝いりのその父のために建てた大寺院、いつごろまで威容を誇れたのだろうか。

岐れ道に引き返し、北へ向かい大蔵址を探す。
大蔵幕府旧跡という碑があった。このような碑を大正年間に鎌倉町青年会が建てまくったらしい。清泉小学校というカソリック系の学園の端に立っていた。


さらに北へ行く。頼朝の墓だ。
小高いところで、ふもとに白旗神社がある。

急な階段を登ると墓がある。


一端降りて右に向かうとまた階段がある。上がると頼朝が毎日経を唱えたという法華堂址なのだが、

今はただのテラス状の空き地に見える。ただ発掘調査はされたようだ。そこから更に階段がある。北条義時、大江広元、島津忠久の墓がある。島津忠久は頼朝の息子だ。

このような岩屋のようなものが3個並んでいる。どれが誰のかわからないがいずれも江戸時代の整備だそうだ。「やぐら」というそうだ。やぐらというと矢倉で武器庫かと思った。

墓を降り、更に東へふらふら行くと荏柄天神があった。鎌倉の大蔵の鬼門に作られた神社だそうだ。

更にふらふらと鎌倉宮まで行く。大塔の宮こと護良親王を祀ってあるそうだ。鎌倉での護良親王は陰惨でしかないだろう。


境内の地図を眺め、思案する。大分歩き疲れた。タクシーでも捕まえたいところだが、影もない。ただ小さな町だ、駅まで歩いても30分は掛からないだろう。
結局岐れ道まで戻り、鶴岡八幡宮を通り鎌倉駅へ行く。
途中、八幡宮東で、畠山重忠館跡の碑があった。

例の大正鎌倉青年会建立である。碑文はたぶんに解せない。

江ノ電で和田塚へ。一駅だけだった、私は勘違いをしており、てっきり長谷より西だとばかり思っていた。
和田義盛は三浦義明の長子の子だが和田姓を名乗っている。三浦氏とはなぜか縁があり、衣笠城に登ったし、三浦氏終焉の地と云われる油壷にも行っている。和田義盛は武勇の士で、侍所の別当なども務めている。頼朝の死後、梶原景時の乱・比企の乱・畠山重忠の乱などを潜り抜けてきたものの、建暦3年(1213)北条義時や大江広元らに諮られたらしい。大蔵御所に火を放ち攻め入るが、多勢に無勢、退却を余儀なくされ、一族討ち死に。この時起請文まで書いたはずの義盛従兄弟の義村は裏切って北条についている。
和田塚駅近くの和田塚はあっけないほど簡単に見つかった。

また地図をにらんでの思案なのだが、ここから由比若宮(元鶴岡八幡)までは直線距離で500m程度しかないように見える。ならば行ってみようと思ったのだが、鎌倉の住宅街の道というのはうまく通り抜けできない道が多い。袋小路になっていたり、住宅の庭につながったり。行きつ戻りつしてしまう。ようやく比較的広い道路に出て海岸橋という交差点で若宮大路と交差する。

海岸橋らしき橋の上から海岸方向。
その後も迷いつつもようやく道標発見。

これでは車で探すのは無理だった。


さて由比若宮(元鶴岡八幡)は前九年の役を前に頼義は石清水八幡をこの地に勧請、戦勝を感謝した。義家も後三年の役を前に戦勝祈願して奥州に赴いたという。
鎌倉入りを果たした頼朝はこの由比若宮を「遥拝」したという。遥拝所は鶴岡八幡にある。石清水や宇佐を遥拝したというのならわかる。遥拝しか出来ないからだ。しかしこの由比若宮までは1kmくらいか、道足が悪くとも20分も歩けば着くだろう。馬ならあっという間だろう。頼朝が来た当時の鎌倉は海人野鼠の棲み処と云われた田舎だという。由比ガ浜は今よりずっと陸地に入り込み、由比若宮のすぐ近くまで海岸線が迫っていただろう。しかし行けないわけがあろうか?ずぶずぶの湿地で近寄れなかった、と何かで読んでいるのだが、うまく納得できていない。

若宮大路を駅へ戻る。

鎌倉駅からJRで北鎌倉へ。

緑滴る閑静ないいところだ。明月院はアジサイの名所だそうでシーズンには観光客が押し寄せるそうだ。

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鎌倉まで

2020-05-22 | 行った所

5月14日朝、出発
高速を浜松インターで降り、磐田市池田熊野(ゆや)へ向かうも藤はとっくに終わっていた。

下道で小夜の中山を目指す。東海道は中山道に比べ平坦だろうとは思うのだが、東に箱根有り、西に鈴鹿有り、またここに小夜の中山、宇津峠あり、というわけだ。
1号線を離れ、道標に従い狭い道を登る。両脇の斜面に茶畑が続く。手入れのよい整った茶の緑がまぶしい。

茶は平安期から中国から入ったが、鎌倉期まではほとんど薬扱いだったようだ。室町を経て戦国時代に爆発的に広がる。つまり平家物語の時代ここを通った人々も目に映ったのは全く別の光景だっただろう。

しかし、峠の見晴らしのいいところに出れば、新緑の山中は輝いていただろう。

*西行碑がある

海道下の「小夜の中山にかかり給ふにも、また越ゆべしとも思えねば、いとど哀れの数添ひて、袂ぞいたく濡れ増さる。」は西行の「年長けてまた超ゆべしと思いきや 命なりけり小夜の中山」を踏まえているのだが、重衡がここを通った時にはまだこの歌は詠まれていない。
重衡の南都攻めで焼亡した東大寺大仏復原のため西行は砂金を求めて奥州平泉の藤原秀衡を訪ねる。その往還に西行もここを通り、帰り道にこの歌を詠んだ。

小夜の中山の西からの登りは車ではさほどとも思われなかったが、東への下りは驚くような急坂であった。
どこをどう出たのかよくわからないが、菊川市内のコンビニで昼食を調達し、高速に乗る。

結果的に伊勢物語を借りた「宇津の山べの蔦の道、心細くも打ち越えて、」を飛ばし飛ばし、静岡ICへ。富士山が見える。少し西へ引き返し、安部川を渡る。
手越の少将井神社に行く。街中だがひどく分かりにくい狭い道である。

千寿前は平家物語では手越の長者の娘で頼朝に遣わされて、重衡をもてなす。

手越から安部川を渡る。見えるのは富士だ。分からないのは「甲斐の白根」

「手越を過ぎて行けば、北に遠ざかつて、雪白き山あり。問へば甲斐の白根と言ふ。その時三位中将落つる涙を抑へつつ、 惜しからぬ 命なれども 今日までに つれなき かひのしらねをも見つ」
ワイド版岩波文庫の註には「山梨県の白根山。赤石山脈中の北岳、間の岳、農鳥山がその最高峰」とあるのだが、手越のあたりから南アルプスが見えるのか。富士が目に入ると他の山を意識することがなくなってしまう。次に富士の裾野云々と書いてあるので甲斐の白根と富士を混同しているとも思えない。註によれば「海道記」を踏まえるとある。

次は清見が関。頼朝の側近として鎌倉に重きをなした梶原景時だが、頼朝急死後、御家人の連判によって追い落とされる。連判人は実に66人に及んだ。翌正治2年(1200)梶原一族は相模一宮から京へ上る途中、襲撃され討ち取られたという。

清見寺は徳川家康が好んだところだったとか。
門のすぐ後ろを鉄道が走る。何やらおかしなことになっている。小浜の常高寺がそうなのだが、常高寺しか知らなかった時にはめったにないものと思っていたが、腰越の満福寺がそうだったし、案外あるのかもしれない。

清見と隣接する興津は江戸時代に宿場町として栄えたようだ。


海道下を離れ、三保の松原へ行く。

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