旧北陸道は、越前の集落・街・宿場を縫うように南北に走る。坂井町の市街地から九頭竜川の渡しまでは、ほぼ県道109号線に重なる。
舟寄(ふなよせ)辺りでは、十郷用水という古くからの農業用水をパイプラインに付け替えた関係からか、多少の街道らしさは集落内には残っているものの、景観はだいぶ違っているだろう。
ここに2枚の案内板が建っている。
舟寄踊りはあまり古くからのものという感じもしないが、一応福井県の無形文化財ということになっている
歌詞に出てくる「黒坂の殿様」は黒坂備中守景久らしい。朝倉始末には所々で描かれ、朝倉氏を支えた中堅どころの家臣と思われる。姉川の合戦に景久は500騎を率いて出陣する。この頃までは朝倉氏の衰運はそれほど目立ってはいなかったと思われる。そして景久の軍兵の中にはこの辺りの農民がかなり含まれていただろう。戦国時代の農民は江戸時代の農民とは違うのだ。
この黒坂館跡と伝わるところが、この案内板から東へ数百メートル行ったところにある。日東シンコーの工場の敷地内である。
「朝倉義景ノ臣黒坂備中守景久居館跡ナリ」に始まる碑がある。昭和45年、丸岡町教育委員会と舟寄地区・新興化学株式会社が建てたらしい。内容は、景久は加賀の一向一揆と戦い功があったこと、舟寄踊りは景久の頃にできたらしいこと、景久は姉川の戦いで戦死したこと、息子の与七郎は一揆と戦って死んだこと、墓らしいものが出たので、ここに整備する、といったことである。
他に五輪塔がいくつかある。碑文の舟寄踊り云々以外は朝倉始末記によるものであろう。
弘治元年(1555)7月と8月、朝倉宗滴率いる越前勢は加賀へ侵攻する。黒坂勘解由左衛門景久は手勢を率いた大将の一人である。苦戦の末相手の武者の首を取る手柄を挙げている。
元亀元年(1570)4月、織田信長は敦賀へ至り、金ケ崎城を攻め落とす。しかし、ここで浅井長政が朝倉と結んだことを知り、引き返す。いわゆる金ケ崎崩れである。
6月、体制を立て直した信長は北近江の小谷城に攻めかかる。朝倉は浅井氏救援に近江に向かう。激突したのが姉川ということになっているが、どっちが勝ったとかそう単純な戦いでもなかったようだ。しかし浅井・朝倉勢は歴戦の将兵の多くを失ってしまったことは間違いない。織田勢も徳川勢の加勢がなかったらどうなっていたかわからないところはあるが。
朝倉始末記は朝倉玄蕃助景連・同次郎右衛門景高・前波藤右衛門景定・小林備中守・窪田九郎右衛門・黒坂備中守と千騎・二千騎引き回す大将は皆死んで若く口達者な者が残った、と嘆いている。他に大太刀を振り回す真柄十郎佐衛門も戦死したらしい。
天正元年(1573)朝倉氏は家臣の裏切り相次ぐ中、義景の死によってあっけなく滅ぶ。景久亡き後の黒坂氏はどうしたのだろう。なし崩しに織田方になり館を保ったか。長島や大阪に手を焼く信長はとりあえず越前は寝返ってきていた朝倉家臣に任せたらしいが、これが収まりのつかないことになる。家臣同士の争いに一向一揆が絡む。越前を一揆が席巻する。
黒坂館跡から南へ数百メートルで長崎称念寺がある。
現在は時宗の寺になっているが、一揆の集合場所の一つとなったところだ。
天正2年2月中旬 河北の一揆は黒坂与七館を攻め黒坂与七兄弟3人・同兵庫助・同弥次右衛門他が戦死している。
黒坂館に攻め寄せた一揆衆にはこの辺りの農民も多数参加していただろう。殿様の出陣に戦勝を祈って集まったのとかけ離れた人々ではなかっただろう。