福井県坂井市長崎は旧丸岡町の西端、広い坂井平野のほぼ中央東寄りになる。近くを旧北陸道が南北走り、東へ行けば豊原寺を抱える山地に行き当たる。
越前・加賀の国境は現在の福井・石川県境にほぼ等しいが、常に固定化していたかというとそうでもないようだ。
朝倉孝景(英林、敏景とも)が越前をほぼ掌中にしたとはいえ、斯波氏の守護代であった甲斐氏は加賀から越前への干渉をなかなか止めなかったし、英林孝景の孫貞景の代になっても、今度は朝倉元景(景総:貞景の叔父にあたる)が加賀の一向一揆と結んで攻め込んで来たりしている。加賀勢は坪江庄まで攻め込み、貞景は長崎に出陣している。
元景が死んでも加賀からの侵攻はやまない。
朝倉始末記によれば、永正3(1506)年 7月17日、加賀の一向一揆勢は越前乱入、九頭竜川北の村々焼き払い、兵庫・長崎に陣取る。
この時朝倉宗滴教景を総大将とする朝倉軍は、九頭竜川を挟んで加賀一向一揆勢と対峙する。東から西へ流れる九頭竜川が山間から平野部へ入ってくる鳴鹿付近から西へ日野川が合流し、流路を北へと変えていく近くまで、10キロを超える防衛線であった。西の中角の渡し付近で始まった戦は、宗滴が中の郷で川を押し渡り朝倉が優位に立つ。一揆軍は敗走し、加賀国境へ追い払われる。その後、享禄4年(1531)には、大小一揆の混乱に乗じ宗滴率いる朝倉軍は加賀へ侵攻、手取川付近まで押し寄せる。つまり当時の加越の国境は、北は手取川から南は九頭竜川まで流動的であったかもしれないということだ。そして長崎の地はどちらも陣取るにはちょうどいい場所だった。
元亀3年、浅井氏救援のため近江に出陣した義景の手勢に、長崎大乗坊、というのが見えるが、長崎のものだろうか?敗走するなか刀根坂の戦闘で討ち死にしたようである。
朝倉氏が滅び、一向一揆が越前を席巻した時、加賀から大将として下間七里三河守と称するものが長崎に着陣する。ここが一揆の司令部になる。この陣は間もなく豊原寺に陣替えしたようだが。
一揆が織田軍に掃討されていくとき、羽柴秀吉の手勢が舟橋・長崎を探索している。民家神社仏閣残らず焼き払い、しかも片っ端から捕まえて殺している。府中・波賀・北の庄・三国・金津・兵庫・長崎・豊原・黒龍の河原に700人磔とある。長崎は目立つ集落だったのだろうか。
称念寺西側の門
長崎称念寺は時宗の寺で、古い由緒を誇るらしい。新田義貞の廟所というのもそうなのだろう。
新田義貞廟
明智光秀が10年も住んだ、というのは本当かどうかよくわからない。
一向一揆が本拠の一つとしたというのは事実としてあると思うのだが、この寺の説明版には一言もない。