遠征のあげく、軍議まとまらず長の詮議(評定)、取敢えず移動し始めたところに追撃を受け大敗走、ようやく自国に逃げ込んだものの、兵は集まらず、寝返り相次ぎ、滅亡に至る。負けによくあるパターンかもしれない。
元亀3年(1573)、改元して天正1年、浅井長政のこもる小谷城救援のため出陣していた朝倉義景、戦況の不利を聞き陣替えをし、更に柳ケ瀬まで退く。ここで長の詮議。敦賀までの撤退を決めるも途中の刀根坂で追撃され、決定的な損害を出してしまう。義景本人は逃げのびたものの、多くの将兵を失う。後はただ敗走だ。敦賀から木の芽峠を越え、なんとか一乗谷までたどり着く。ここで館に立て籠もって一戦とか自害とかではなく、義景は妻子を伴い大野へ向かう。大野の郡司朝倉景鏡(かげあきら)の勧めだという。血筋はよくわからないが、義景叔父景高の後を襲って大野郡司になったのだから近い血筋のものだろう。一門衆筆頭でもある。景鏡は今回の近江の戦に出陣していない。つまり大野の兵は無傷だ。それに白山平泉寺の兵力も見込めるかも。だが、この時景鏡が何を考えていたかはわからない。出陣していないのだって将兵の疲れを理由にした拒否だった。
一乗谷から大野へ向かう道筋は、朝倉始末記に出てくる地名から追うことができる。だいたい国道158号線の旧道に一致する。美濃街道ともいわれた道だ。足羽川沿いに旧美山町の集落を縫うように走る。車で30分ちょっとであるが、義景一行は丸一日かかっている。義景や側近は馬だろうが、妻子は輿とあるから丸一日は上等だろう。
*158号線旧道ルート
一乗谷の赤渕大明神を拝み、下城戸を出て阿波賀、市波、宇坂、小和清水、薬師、大宮、計石、峠を越えて大野盆地に入る。既に夜に入り、盆地の風景は見えなかっただろう。
*大野市やばなの里から。左が犬山(亀山)、右手に戌山。犬山(亀山)は後に金森長近が居城としたところ。現在模擬天守がある。戌山は斯波氏から朝倉氏にかけての城郭址がある。雲海に浮かぶ天空の大野城のビューポイントになっている。
義景一行は戌山麓の洞雲寺に入る。
*洞雲寺楼門 曹洞宗の古刹らしい雰囲気のあるところだ。幕末の大野藩で財政を担い活躍した内山氏の菩提寺でもある。
義景は洞雲寺で、平泉寺に書状を書いたりして過ごした後、六坊賢松寺へ移る。洞雲寺では守りにくい、というのだがわからない。それこそ戌山の上か、景鏡館にでも入れればいいはずだ。義景は六坊賢松寺で景鏡手勢に囲まれ詰め腹を切らされているのだから、景鏡にとって都合のいい所に移された、ということなのだろう。
六坊賢松寺は今はないがその場所はわかっているようだ。大野の市街地はきれいに整備されているが、そのひとつ御清水(おしょうず)の近くで、義景の墓のある義景公園の近くでもある。
*御清水
*義景の墓
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*この地図は北が下になっている
義景の妻子も当然のように殺される。景鏡は義景の首をもって信長に降るが、周囲の反応は冷たいものだったようだ。しかし信長は景鏡を許し、大野郡を安堵する。景鏡は朝倉の姓と通字を捨て、土橋信鏡と名乗る。
一年とたたないうちに、越前は一向一揆が席巻する。景鏡は平泉寺と共に一揆の焼き討ちに滅ぶのである。それは残った朝倉家臣の過半が辿った道でもあったが。
*平泉寺南谷坊址
犬山・戌山から少し離れたJR越前大野駅のほど近くに日吉神社がある。そこに亥の山城址の案内があった。亥の山城と戌山城の関係は日常の居館と戦時の城郭だろうか。標識に拠れば、朝倉景鏡・杉浦壱岐・原彦次郎がここに拠った、とある。杉浦壱岐は一向一揆の大将だ。原は知らない。