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府中龍門寺城(越前市) 他

2024-05-06 | 行った所

越前国府は越前市(旧武生市)府中近辺。国府の碑も国分寺という名の寺もあるが、国庁址はわからなかった。近年、本興寺という寺の境内から平安時代の遺構が発掘されたということである。
*本興寺境内内の発掘場所
*発掘の説明版

府中は古代の越前の中心であったことはもちろん、中世・近世になって一乗谷・北の庄が台頭しても、存在感の大きい街だった。

朝倉始末記には、足利義昭が越前下向の際、府中龍門寺に立ち寄ったことを記す。
*龍門寺への案内板*龍門寺
*案内板
*この案内板はNHKが前田利家のことをドラマ化した2002年のものだろう。
*武生市は2005年に越前市となっているのでそれ以前の案内板。
*堀跡の墓場
案内板が3つもあるが、それぞれちょとづつ違う。
天正1年(1573)朝倉滅亡時、織田勢の中には朝倉家臣に属していたものも少なくなかった。府中に入ったまだ若い富田長繁は真っ先に寝返った前波吉継(桂田長俊と改名)に続いて、織田陣に駆け込んだ。朝倉の武将で刀根坂の戦いで討ち死にしたものは多い。その後織田軍の越前侵攻時には、積極的な抵抗戦を試みることなく降伏したものは更に多い。彼らを見て、富田は己の先見の明を誇ったであろうか。

信長は府中龍門寺で戦後の処理をする。朝倉景鏡が義景の首をもって信長に降ったのはここだったらしい。しかし一年もたたないうちに、越前は一向一揆に席巻される。一揆の発端は富田が桂田(前波)追い落としのために煽ったものだという。その一向一揆が富田を囲み追い詰める。富田ばかりではない。旧朝倉家臣の武将たちの館・城のほとんど、浄土真宗本願寺派以外の寺院も焼き討ちされる。
一向一揆勢を破り、再び信長は府中に陣を敷く。信長は府中の街は死体で埋め尽くされているなどと、得意げな手紙を書いている。龍門寺は信長が府中に置いた配下の城となる。

鯖江市長泉寺町に富田長繁の供養塔がある。歯塚大権現という小さな祠の脇である。
*歯塚大権現
*富田長繁供養塔
*富田長繁供養塔案内板
富田長繁という人は、勇猛で戦は巧みで自信家だったらしい。戦功一番のつもりが前波吉継(桂田長俊)の下につけられたのが不満だったようだ。前波を滅ぼした後も、仲は悪くなかったはずの魚住景固父子を騙し討ちに殺してしまった。これですっかり人望を亡くしたようだ。後ろから鉄砲が飛んできたというのはそういうことだろう。

歯塚明神の北へ数百メートル行ったところに中堂院という寺がある。「すりばちやいと」という変わった行事で知られた寺だが、泰澄大師が創建したという古い由緒の玉林寺三十六坊の一つで七堂伽藍が立ち並ぶところだったという。朝倉氏の庇護を受け栄えたが、一揆により焼亡したという。朝倉義景・織田信長・結城秀康などの文書を所持する。
*中堂院
*本堂
*阿弥陀象説明
*石仏
*一乗谷にあるような石仏群
*供養塔
*壮大な伽藍後の名残のような池。えちぜん鉄道福武線の線路が上を走る。

さらに北へ7,8キロ行くと福井市片山(旧清水町)に真光寺址というところがある。ここもかなり大きな寺だったが、富田長繁の配下の武将増井甚内助、が立てこもり、一揆によって焼亡したという。更に毛屋猪之助が守る北の庄の館も落ちた。
*塔楚址? 
*復元石造多層塔
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