昼食後、秦野市方面へ向かう。鎌倉から出るのにはいつもまごつく。大船からの道でナビが示す道が通れない所為もあるが、どっち方向へ行くのか判然としない所為もある。雨が降り出す。
波多野義通という義朝の郎党がいる。藤原秀郷流を称し佐伯とも名乗る。前九年の役から源氏に従った。波多野荘から松田郷にかけての一帯を支配した相模の有力豪族である。義通の妹は義朝に嫁し、朝長を産んだ。朝長は松田郷に育つ。源氏の嫡男、のはずだった。しかし保元の乱を経て、義朝の嫡男は頼朝とされた。保元の乱を義朝に従い戦った義通は怒って義朝の元を離れる。しかし平治の乱では再び義朝と共に戦っている。朝長は平治の乱で傷を得て死ぬ。義通も1167年死ぬ。息子の義常は頼朝に敵対し、攻められ自害する。叔父が頼朝に従い鎌倉の御家人として生き残るが、和田義盛の乱で和田方として滅び、一族の中からまた継ぐものが出たらしい。
その波多野氏の本拠、波多野城、結構な山間だ。かなめ川という川が流れる。
波多野の荘を見下ろす位置だろうと思ったが、立木の所為か建物か、雨か、眺望はきかない。
波多野荘と大庭荘を比べれば明らかに大庭の方が土地生産性は高そうだ。
実朝首塚の標識を見る。鶴岡八幡で死んだ実朝がなぜこんなところに?だったがそれなりの理屈はあるらしい。
実朝暗殺事件は下手な推理小説めいているのだが、首の行方もまた妙な具合だ。実朝は公暁に殺され、一緒にいたは源仲章も殺され、これは北条義時に間違われて殺されたと言われる。義時は直前になって体調不良を言い立て退席している。公暁の襲撃を知っていたのでは?と疑われる。更に居並ぶ御家人たちはどうしていたのか、むざむざ将軍ともう一人をを殺され、首さえ持ち去られる。坂東武者の名が泣くようなありさま。尤も、曽我兄弟の事件でも、二人の兄弟に十人斬りされてしまうくらいだから、戦場の活躍とは裏腹に不測の襲撃には対応が下手なのかもしれないが。 公暁は、三浦義村の家臣長尾定景によって成敗されるが実朝の首は不明で、体と髪を勝長寿院に葬ったとされる。しかし勝長寿院跡には実朝の墓はなかった。寿福寺という所に政子と共に供養塔があるそうだ。公暁が持ち去った実朝の首は、三浦義村の家臣武常晴が拾い上げ、波多野氏を頼ってこの地に葬ったのだと伝えられている。三浦の家臣が首を三浦に渡さずここへきて葬ったのは三浦義村が公暁をそそのかした真犯人であるためだというのだが??
実朝の墓は公園になっていて、地域の人の和歌が貼られていたり、実朝祭りもあるようだ。近くに金塊植物園という実朝の和歌集にちなんだものもある。
雨は止まない。松田に向かう。
松田の寒田神社のあたりが朝長も住んだ松田館があったところだという。それなりの規模の神社だが、松田館の事は何もわからなかった。寒田神社南側、という情報があったので何らかの調査はあったのか、しかしそのあたりは小学校の敷地で、後を示すものはなかった。
猫さんがいた。
降りしきる雨の中、河口湖を目指す。御殿場から富士山の東を回るように向かったのであるが、当然ながら富士は見えない。
しかし、夕食時にうっすら富士が姿を現した。