新東名新城ICで高速を降りる。
設楽が原歴史資料館へ。像は岩瀬忠震。幕末に外交官として活躍、橋本佐内などとも親交があったようだ。
設楽が原の合戦は織田・徳川の連合軍が武田の騎馬隊に鉄砲で大勝した戦いだが、かつては長篠の合戦と言っていたはずだ。いつの間に設楽が原になったのか。
徳川が押さえていた長篠城を武田軍が包囲する。家康・信長軍は城の救援に来たはずなのに長篠城から4キロほども西に陣を敷いて動かない。武田勝頼は城攻めよりも信長との決戦を望み大半の軍を城の囲みから移動する。実際に戦闘が行われたのは長篠ではなく設楽が原だったので合戦名も変わったのだろう。
武田信玄亡き後も常勝を続けてきた武田軍、若い勝頼の逸りもあったか、織田・徳川陣前に連なる馬防柵、その後ろから3000丁といわれる鉄砲が次々玉を浴びせかけられる。
さらに徳川勢の一部はぐるりと山を回り、長篠城背後へ。鳶の巣山の砦に勝頼が残した武田軍に襲い掛かる。ここに戦国最強と言われた武田軍団は大敗を喫する。勝頼は逃げ帰ることができたものの、名だたる大将が多く戦死した。
武田軍の討ち死に大将
馬防柵
柵の後ろから鉄砲を撃ちかける。ただ、三段打ちと言われた鉄砲隊の隊列、実際の射撃方法などは不明のようだ。
鉛は貴重だったので回収していたとか
長篠城址