河野四郎通信は壇ノ浦で150隻もの兵船を集め源氏に味方し、その水軍に寄与した四国の豪族だが、物語の前の方でもちょくちょく顔を出している。
平家物語第6巻「飛脚到来」治承5年2月木曽義仲の挙兵に続き、各地で平家に対する「謀反」の知らせが相次ぐ。
四国でも伊予国住人河野四郎通清をはじめとする四国の者ども皆、平家に叛き源氏に同心、しかし備後の額の入道西寂は平家に味方して伊予へ押しわたり、道前道後境、高直城にて、河野通清を討ち取った。しかし、通清息子の通信は母方の伯父安芸の沼田次郎のところへ行っていて留守であった。父が討ち取られたと知った通信は、備後の鞆で西寂を急襲、西寂を生捕り、高直城へ連れていき、のこぎりで首を切ったとか、磔にしたとかのうわさが聞こえてきた。
第9巻「六ケ度の軍(いくさ)」ここは一の谷合戦の前の平家の反撃である。平教盛と息子の通盛・教経が備後の下津井(倉敷市)にいたところ四国の反平家の軍勢が押し寄せた。源氏の旗下に入る手土産に平家を叩こうというのだ。しかしここは教経の奮戦で、四国勢を淡路島まで押し返す。さらに招集しても来ない河野通信を討ちに四国へ渡るが、通信は伯父のいる安芸の沼田城へ行って抵抗する。教経の猛攻に沼田次郎は降参するが、通信は尚も戦う。しかし主従2騎までになってしまう。しかも郎党は敵に抑えられ首を切り落とされようとする。この時通信は猛然と取って返し、郎党を助け小舟で逃れる。この時の名乗りでは通信21歳である。
第11巻「大坂越」元歴2年(1185)義経は梶原景時等の反対を振り切り、嵐の中、四国に押し渡る。近藤六親家を案内者に、勝浦合戦で阿波民部紀重能弟能遠の城を攻め落とす。さらに屋島には平家軍が少ないとの情報を得る。平家軍は分散している上、主力である阿波民部紀重能息子の田内載能は、河野四郎通信を討ちに行っていて留守だ。
河野通信は六ケ度の軍で、教経に散々な目にあったのだが、息を吹き返していたと見える。この時も田内載能は通信を討ち漏らしたまま屋島に帰ってきた。この田内載能は伊勢三郎に騙されて、義経に下ってしまうのだが、それは別の話だ。
そして「壇之浦」「また伊予国の住人、河野四郎通信、百五十艘の兵船に乗りつれて漕ぎ来たり、源氏とひとつになりにけり。」
この後、通信は鎌倉の御家人となる。しかし承久の乱では京方につき、伊予高直城で抵抗を続けたが、捕えられ、陸奥の江刺郡稲瀬(岩手県北上市)に流罪となり、そこで死ぬ。
通信の長男通政は信濃国伊那郡に、次男通末が信濃国佐久郡に流された。三男通久は鎌倉方についていた。通広は出家しており乱には関わらなかったようだ。この通広が一遍の父である。即ち、河野四郎通信とは一遍の祖父であった。
一遍上人絵伝の一遍は色黒く痩せ、ぎょろ目でどちらかというと悪相である。豪勇で知られた海賊ともいえるような武者の血を引く出自と知れば、それなりに納得できる風貌といえようか。
一遍は岩手の通信の墓にも詣でている。
遊行寺の一遍上人像。絵伝よりは余程温和な顔立ちになっている
遊行寺
佐久市伴野の西光寺
伯父がこのあたりに配流されていた。一遍は尋ね、念仏踊りを興行する。この寺では踊念仏が行われているとのこと
跡部の踊念仏といい、長野県の無形民俗文化財になっている。
ただしこの寺、時宗ではなく浄土宗である。
寺の後ろから見える浅間山
三島大社
絵伝には三島大社へ詣でた一遍の絵がある。料紙を3枚連ね、参道を描き表している。(三島郷土資料館の展示から)
神社は何度か焼け落ち、再建されているので現在の大社とは違っているようだ。
三島大社の鳥居前を東西に走る道は、東海道だ。三島大社の境内の西方、東海道の北を東西に走る道が鎌倉古道らしい。
町中の道で大して情趣はないが 一遍もこの道を通ったのだろうか。