物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

賤ケ岳に登る

2021-09-16 | 行った所

賤ケ岳の戦いは、天正11年(1583)、柴田勝家と羽柴秀吉との間に起こった信長の跡目を巡る戦いだ。周知のように秀吉が勝ち、彼はやがて太閤殿下にまで上り詰める。
勝負の帰趨は、誰が勇猛であったかとか、戦いの作戦が優れていたとかではなく、むしろ秀吉が最も得意とした「調略」に帰した。
だいたい戦いの半年前、勝家が秀吉に和睦の使者として送った連中がその時点ですっかり調略されていたというのだから世話はない。勝家旗下の将が、いざ合戦がたけなわとなった時、そっぽを向いて動かなかったり、退却を始めたりするのではどうしようもない。前田利家・金森長近・不破直光といった連中である。
最初から出陣なんかしなければいいのに・・・共に陣を敷いておきながらあんまりではないか、勝家側の作戦は駄々洩れだったろう。にもかかわらず賤ケ岳七本槍などと云うのが喧伝されたのは、勇ましく戦った勇者がこっちにたくさんいたんだよー、という秀吉のこれはアリバイのようなものだろうか。
ともあれ、佐久間盛政の猛攻も空しく、歴戦の将勝家も敗走せざるを得ない。

賤ヶ岳に登ると何故ここが戦いの場になったかがよくわかる。


西から南に掛けて琵琶湖、葛籠尾崎とその先に竹生島が浮かぶ。

南に峠道の端に山本山、濃い緑の山並みの向こうに三角に突き出ているのが山本山。さらにはきっと長浜城も見えただろう。長浜城は勝家養子(甥)勝豊が領していたが、秀吉の調略にあっているし、勝豊は既に病死している。

東南に見える伊吹、そして北国街道、小谷の脇を通る北國脇往還、

北に余呉湖、そして越前へ続く山並み。360度の眺望が利くのだ。北陸の押えはここだ。
各山の砦の見張りが狼煙を上げ、伝令が走る。これは山取合戦だ。

 

賤ケ岳に登る、とはいってもリフトがあるので楽ちん。

 手頃なのか、徒歩で登る登山道もよく整備され、傾斜もそう急ではないそうだ。

リフトを降りるとすぐ尾根伝いに、山本山まで続く道がある。

遊歩道案内

山本山は標高324メートル。頂上まで40分かかる。うっかりすると転がり落ちるんじゃないかという砂利道で傾斜がきついところがあった。賤ヶ岳は421メートルだけどリフト6分、頂上近くで徒歩5~10分くらいだろうか。

 笠野金村の万葉歌碑もある

 賤ケ岳碑


リフトで麓に戻り、少し界隈を歩く。長浜市の大音という集落だが、この北琵琶湖一帯は伊香郡という郡が置かれていた。琵琶湖の西側、龍華にも伊香立という地名があった。どちらも古い地名のようだが、どんな関係だろうか。


 伊香具(いかぐ)神社という神社がある。
 鳥居が変わっている。厳島神社の鳥居のように前後に張り出した脚がある。更に左右にも張り出しがある。

 この付近まで琵琶湖が北へ張り出し、水辺にあったらしい。

 

 かつて浄明寺という寺があり、寺を中心に長安に模した村造りがされたという、気宇壮大なことが書いてあるお堂があった。

余呉湖の北方3km程、365号線から西へ入ったところに「毛受兄弟の墓」がある。

兄弟ともに柴田勝家に小姓のころから仕えた若武者で、勝家を落とすために馬票を預かり、奮戦、戦死したという。「毛受」は「めいじゅ」と読むらしい



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