物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

伝那須与一墓(厚木市)

2021-12-26 | 行った所

屋島の戦いで、那須与一が平家の船の扇の的を射ち落す話は、平家物語の中でももっともよく知られたエピソードだろう。

「与一、鏑をとってつがひ、よっぴいてひょうとはなつ。小兵というぢょう、十二束三ぶせ、弓は強し、浦ひびくほどながなりして、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて、ひィふつとぞ射きったる。鏑は海へ入りければ、扇は空へとぞあがりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に、一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ散ったりける。夕日のかがやいたるに、みな紅の扇の日出したるが、しら浪のうへにただよいひ、浮き沈みぬゆられければ、奥には平家、ふなばたをたたいて感じたり。陸には源氏、えびらをたたいてどよめきけれ」

確かに絵になる名場面。この前の文で2月18日酉刻とある。新暦なら3月半ば、午後6時、日暮れは近いが、西は海、日差しは届いていただろう。射る前は「をりふじ北風激しくて、磯うつ浪もたかかりけり」とあるのだが、射落とせば春風が吹き、波も穏やかに扇の表を波間に漂わせる。

わからないことの一つは何故征矢(そや)ではなく鏑矢を選んだのか。鏑矢は鏃が大きい。中に空洞があり、音が鳴る仕組みだが、安定はよくない。つまり的中率のいい矢ではない。儀式用の矢ではないか。日暮れ、揺れる波の上の舟の一点を狙うにふさわしい矢とは思えない。余興というには敵味方双方の期待が大きすぎる。実際には征矢を射った可能性が大きいのではないか。
それとも神に祈った矢で、この一射は神にささげるものであったか。次の場面で伊勢三郎に命じられ、船端に喜び踊る平家の武者を射殺した時には征矢を使っている。

下野国の住人那須太郎資高が子与一宗高、歳は二十ほど、小柄なれど弓の名手とえらばれる。与一とは余一に同じで11番目の子という意味だ。石橋山で戦死した佐奈田余一の例もあり、11番目など珍しくも無かったろう。平惟茂は余五将軍と呼ばれたがこれは伯父貞盛の養子になり、15番目の子となったからだ。
「扇の的」の功績で荘園を5か所得るが、山城で死んだらしい。墓は京都と栃木県大田原市にあるそうだ。


何故厚木に那須与一のものと伝わる墓があるのかわからない。与一が賜ったという荘園は丹後・若狭・武蔵・信濃・備中である。武蔵のものは太田荘で比較的近そうではあるのだが。
 新しい住宅地と畑が入り混じるところにある寺の墓地の隅であった。(厚木市旭町2丁目11−2)

 



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