物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

粉河寺 根来寺

2022-07-07 | 行った所

粉河寺は紀ノ川の北側、葛城・金剛山地から続く和泉山脈を背にしてある。奈良時代創建の古刹だそうで、創建者は大伴の何某とか。紀の国は紀氏の本拠だろうが大伴氏も力があったのか。粉河寺縁起絵巻があるがよく知らない。
平安時代には観音霊場として隆盛を誇ったようだ。中世には僧兵を擁し威勢を張った。しかし秀吉の紀州攻めで根来と一緒に焼き払われてしまったようだ。
大門の脇を抜けると駐車場だ。土産物屋がある。

 中門
 石庭

今の伽藍はすべて江戸時代のもので、8世紀の創建を思わせるものは何もない。

 

 


根来寺も紀ノ川の北側、和泉山脈を背にするなど粉河寺と似た立地らしい。粉河寺より西で、粉河寺は紀の川市だったが根来寺は岩出市になる。
奈良時代の南海道は平安遷都と共に、京都―難波から河内長野―紀見峠を通り橋本へ出て紀ノ川沿いに西へ進むのが官道となる。更に熊野詣が盛んになると、住吉から泉南市辺りまで行って、和泉山脈を越えるルートがメインになっていく。現在の阪和道が近いのだろうか。雄ノ山峠ごえという。更に近くには南北に走る根来街道もあった。東西に走る南海道と南北の道が交差するところのに根来寺はある。交通の要衝を押さえていたのだろうか。


根来寺は11世紀に高野山との確執によってできた寺らしい。しかし、鳥羽上皇などの庇護によって勢力を拡大した。もちろん僧兵も擁した。戦国時代には鉄砲衆を抱え大いに恐れられた。勢力は泉州に及び、織田信長の石山本願寺攻めにも寄与した。
しかし、秀吉の紀州攻めにより壊滅する。
中世、紀伊には守護が置かれなかったそうである。寺社勢力が強かった大和と同じである。大和の興福寺・東大寺に当たるのは、高野山・熊野そして根来・粉河寺であろうか。地侍のグループも強かったのだろう。雑賀も根来も鉄砲を使いこなし、大阪に近い利点を十分に発揮したのだろう。
資料館があった。


延慶本平家物語はここで写されものだったのか。しかも南都焼亡と根来寺焼亡が因縁つけられていたとは。
 紀ノ川の水運の様子


かつらぎ町から紀の川市へ

2022-07-06 | 行った所

和歌山県にも「かつらぎ」があるらしい。葛城金剛の山系がまだ続いているのだから不思議はないが、どうも混同しそうだ。


道の駅があったので寄ってみる。

 紀ノ川沿いだ

南海道 奈良時代には平城京から紀ノ川沿いに四国へ至る道。
妹背山女庭訓の舞台はここか。吉野川だと思ったが、確かに同じ川である。とはいえ見回してもどの山かはわからなかったが。

蘇我入鹿がめちゃくちゃ悪人で、川を挟んで悲恋の二人の首が互いに向かう河岸に流れ着くというかなり無茶な話。

 阿閉皇女とは元明天皇のことだ。ということはこの背は草壁皇子か。

 笠金村は越前にも赴任したことがあるはずだ。だいぶいろいろ回っている。大伴家持も山上憶良も随分と転勤して歩いている。

 

紀の川市は合併でできた市らしい。
国分寺跡があるところの旧町名は打田町東国分寺だがその前の地名は那賀郡池田村東国分だそうだ。西行は紀州の池田荘・田中荘の出身だというが、近くだろう。

 広い敷地に礎石と基壇。

 僧房跡の柱列復元

 塔の基壇

資料館に発掘や史跡としての土地買収時のビデオがあった。地権者をヘリに乗せ上空から見せたりしている。こういう物は珍しい。

西行の資料もあった。

 

 


飛鳥から紀州橋本市へ

2022-07-05 | 行った所

以前隅田八幡宮へ行ったときには、五條から京奈和自動車道を走ったのである。だから御所のICで高速に乗るのかなあ、と思っていたのだが、稲渕辺りでナビに入れるとどうも違うようだ。よくわからないままナビ通りに走る。田舎道や集落内の道を走る。途中から概ね近鉄吉野線線沿いを走ったらしい。

 吉野駅を過ぎてしばらくしたところで道標を見た。
 右 かうや 左 大峰 とある。
こういう道標があるところを見ればこれは街道だ。これは当てたかも、と思う。
五条のどこからか24号線になる。
 橋本市内の紀ノ川

橋本駅の北側に小高い丘陵があり、丸山公園とある。陵山というかなり大きな円墳があるところなので、てっきり古墳公園になっているのかと思ったのだが、迷い迷い細い急坂を行きついてみれば、草ぼうぼう、何やら裏さびれているのだった。一応滑り台などの遊具はあるものの、こう草深ければとても小さな子供と遊びにこようとは思うまい。
 陵山古墳

 案内板もあった。しかし古い時代の発掘されたためか遺物は散逸。残ったものは郷土博物館にあるというが博物館は休館中なのだった。隅田八幡人物画像鏡はここからでた可能性がある。
 公園内に第二次世界大戦中、米軍の機銃掃射による被弾跡が掲示されていた。

 南方面 写真ではよくわからないが東西方向に紀ノ川が流れている。


奥明日香

2022-07-05 | 行った所

 石舞台の付近から南に祝戸地区があり、歴史公園になっている。かなり広い範囲を公園化しているようだ。
入口から少し入るとマラ石という物がある。


所謂飛鳥の謎の石造物らしいが、縄文の石棒に似ている。石棒はたいていきれいなエンタシスのある円柱状に加工し、先端に男性器を模した突起がつく。マラ石は突起はともかく四角柱から加工したのかという形状が残る。近くのふぐり山という山と対応するというのだが、どの山かわからなかった。
公園の奥へ入っていくと飛鳥稲渕宮跡がある。


ここは〇〇の宮があった伝承地ではない。発掘で宮っぽい建物跡が出てきたのだ。7世紀半ばに比定されているようだ。

公園を出てさらに南下すると稲渕棚田の看板があった。


この地に営々と田が造られたのはいつごろからだったのか、またこの景観を守るためにどれ程の努力がはらわれていることか。
飛鳥川の谷だ。西へひと山越えると檜前になるのだろう。

道が二手に分かれ、左は南淵請安の墓のある集落へ。

 墓そのものはよくわからなかった。是ヨリ壱町 とあるように読めるが、坂を上がると行き止まりで、左の寺らしい建物も門が締まり、何の表示もない。

もう一方は飛鳥川を渡る橋がある。この橋のたもとには道と川の上を注連縄が渡っている。

 男綱だ。
飛鳥川に沿って遡るようにしばらく行くと、今度は女綱だ。

 

おおらかなのか何なのか、民俗学にはあまり興味はないが、ともあれ子孫繁栄の願いは強烈だったか。


檜前(ひのくま)

2022-07-04 | 行った所

檜前とは飛鳥の南西に広がる丘陵地帯のようである。

 渡来人が多く住み、急速に発展したようであるとともに、王家の墓も多く作られるようになったのか、野口王墓(天武・持統合葬墳)は檜隈大内陵、文武陵は檜隈安古岡上陵、欽明陵は檜隈坂合陵という。系図通りだと天武は欽明の曾曾孫だし、文武は天武の孫だ。ずいぶん時間軸が長い。もっとも文武の真の墓は中尾山古墳らしいし、欽明も見瀬丸山古墳の方が確率が高いだろう。
高松塚もキトラ古墳も檜前にある墓ということになる。
高松塚とキトラの間、西寄りに檜前寺跡がある。休憩案内所や広い駐車場もある。至れり尽くせりだ。

ここの人たちが高松塚・キトラ古墳の造築にかかわったであろうことはよく言われる。


寺跡には於美阿志(おみあし)神社がある。寺は東漢氏の氏寺でたいそう立派なものだったらしい。何度かの発掘調査で明らかになってきているようだ。

 十三重塔(平安時代のもの)もあったりするが、境内に、宣化天皇の宮跡だという碑があった。

 檜隈廬入野宮だという。宣化は異色の大王継体の息子の一人だ。継体の死後、兄安閑の後に即位したという。兄弟は継体が王位継承前、尾張の目子媛との間に生まれていた息子たちだ。当然成年に達している。継体は即位に際し手白香皇女を娶り、欽明が生まれた。継体の死んだとき欽明はまだ年若だったとみられるから異母兄二人が中継ぎでもおかしくないかもしれないが、それ以前に、日本書紀と古事記との間で継体の死んだ歳そのものが違う。更に百済記に「日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨」という物騒な記事がある。畳の上で二人一緒には死なないだろう。と、とてもすんなり継承が済んだとは思えないのだ。
古代の継承はどこでも初源的には母系だろう。その後欽明の子供たちが敏達・用明・崇峻・推古と王位を継いだことを思えば、血統の仲立ちをしたのは、前王の姉妹だという手白香皇女に他ならないだろう。
手白香皇女の墓は西殿塚古墳(継体天皇皇后 手白香皇女 衾田陵)が指定されているが、6世紀の人の墓が山の辺の道近くで4世紀のものらしい古墳とはどう見たって違うだろう。
宣化は尾張か越前か近江の高島かの地方育ちと思っていたが、諱は檜隈高田(ひのくまのたかた)皇子というらしい。案外この辺りと縁があったのだろうか。ここは東漢氏の拠点、東漢氏は蘇我氏と関係深い。蘇我氏は欽明朝で台頭する。宣化も蘇我と関係があったのだろうか。
多治比氏などが宣化の子孫として名乗っている。欽明の子の一人で崇峻の死後のごたごたで殺されたらしい穴穂部皇子と一緒に死んだ宅部皇子も宣化の子だというが、年代的に見て子というより孫か。穴穂部皇子と宅部皇子は斑鳩の藤ノ木古墳の被葬者に擬されている。

休憩所と於美阿志神社との間に窯跡があった。


高松塚古墳

2022-07-04 | 行った所

飛鳥歴史公園館前の駐車場に車を止め、かなりの交通量の209号線を地下道で潜る。

  広い公園だ。高松塚発見以降整備されてきたのだろうが。道路で隔ててある部分全部含めると甘樫丘くらいあるのかもしれない。
高松塚装飾壁画の発見は大変な騒ぎであったのだ。あのようなものが日本で発見されたのは初めて出会ったのだから。あの頃はあの壁画が模写を残して無残に朽ちるなど、誰も考えていなかった。
壁画館にたどり着く。ここは模写した壁画とパネル展示がある。

 


高松塚まではすぐだ。

 星宿の展望台から高松塚を見る

星宿の展望台を通り、低い尾根伝いにしばらく行くと文武天皇陵が見える。真の文武の墓と言われるのは中尾山古墳らしいのだが。

高松塚・キトラ古墳合わせて被葬者の問題はいまだ解がでていない。
決定的な証拠というとやはり文字資料が出てこなければならないのではなかろうか。

日本人は祖先の墓を大事にし、遺骨にもこだわるといわれるし、遠い島へ戦没者の遺骨収集団が組織されたという話を聞いたのはそう遠い昔ではない。でもそれはいつごろからなのだろう。
古墳という巨大で大変な土木工事を伴う墓の葺石・埴輪の柱列を見るとき、墓・葬送への並々ならぬ熱情を感じないでもない。でも被葬者が誰かということは伝わらないし、墓のメインテナンスが継続することもない。葺石や埴輪は遠くからでも巨大な人造物として認識されるシンボリックなものだったはずだが、数年経ない内に葺石の合間より草が生え、やがては木が茂る。樹木の根に墳丘も形を変え、葺石は崩れ、埴輪は割れ落ちる。樹々が生えた古墳は自然の山々と見分けのつかぬものとなる。
そうなると大王だったものの墓だとて、何代か前の爺さんの墓はこの辺だったらしい。程度のものになるのだろう。記紀の陵はどこそこにありの記述はそうしたものを集めたのか。
自然の山野と区別がつかなければ、墓という意識も薄れ、宝物の埋まっている山らしい、となれば盗賊も手を出すだろう。
鎌倉時代の「阿不幾乃山陵記」に出てくる盗賊(野口王墓古墳(天武・持統合葬墳)を荒らした)は天武の屍など恐れていないし、持統の遺灰などさっさと捨てている。取り調べた検非違使も墓の入口を塞いで、それで事足りたらしい。

シンボルとするものが変わった、といえばそうだろう。難波の湊を威圧した大仙古墳(仁徳天皇陵)は四天王寺が取って代った。葺石と埴輪の巨大古墳の代りに丹塗りの柱に青黒く輝く屋根瓦、天にそびえる五重塔が建った。
四天王寺とかかわりが深いという厩戸皇子(聖徳太子)の墓は磯長の叡福寺北古墳で、おそらく間違いないといわれる。明治初期まで石室の入り口が開き、誰でも覗けたらしく、いくつかの見聞記がある。3つの棺台と夾紵棺(乾漆棺)の破片らしいものがあったという。多分盗掘も受けているのだろう。
3つの棺台は厩戸本人と母親と妻のものだというが、厳密な証拠はないし墓誌もない。厩戸皇子に限らず当時の高官は漢文を読みこなし、かつ書いたはずだ。でも墓に関しては何も語らない。厩戸皇子が長らく住んだ斑鳩には藤ノ木古墳がある。厩戸が居た間に造られた墓のはずだ。真っ赤に朱を塗られた石棺の中に豪華な馬具などと共に葬られた二人の人物を知らなかったはずがない。でも何も書き残さなかった。

古墳時代が開幕する3世紀半ばどころか、1世紀、漢委奴国王の金印を得た倭人の周りには漢字を知る人はいた。でも墓碑が作られることはなかった。わずかに金石文、鏡や剣に彫られた文字があるばかりだ。金石文というが石に彫られたものを知らない。
高句麗の広開土王碑は5世紀のはじめに造られたものだ。碑文の解釈は難しく、学者によっては(特に日本と大陸・半島によっては)同じところに真逆の解釈がなされるなど、問題はあるが、「これは誰それの墓で、誰それが建てた」というようなものであれば問題はないだろう。がそのようなものはない。
大王の墓がわからなくなるのは古代以前の話ばかりではない。平安時代でもあった話だ。
二条天皇は後白河の息子で英邁の誉れ高かったが、若くして死んだ。「平家物語」は船岡山に埋葬されたと語るが香隆寺という寺で火葬にされ、遺骨は三昧堂に納められた。ところがこの香隆寺が廃絶してしまう。江戸時代何度か探すも寺も墓もわからず、明治に入って、現二条天皇陵の場所が「卜定」で決められ墓が造られたのである。
江戸時代に入って幕府の方針か、陵の調査が行われ、国学の発展と共に修陵(陵を定め修復)が度々おこなわれた。
明治の陵墓指定はそれに基づくものだろう。苦労はしたのだろうと思う。だいたい記紀の天皇の数より大王墓級の古墳の方がよっぽど多い。皇后で数合わせをしているのか。それに、古墳の編年という基準もない。記紀に出てくる地名を基にそのへんで目立つ古墳をあてはめるしかなかったはずだ。
当時はそれで仕方なかったろうが、新しい知見がでてくれば、改めるのが当然だろう。宮内庁のやり方は修正をしていたという江戸時代より酷い。
まあ、高松塚もキトラ古墳も藤ノ木古墳も今城塚も、陵墓や陵墓参考地になっていなかったからこそ調査出来た、という面はある。

私はなんとなく高松・キトラ両古墳の被葬者は渡来系の人物ではないかという気がしている。 これらの装飾壁画に匹敵する類例がわずかに知見のある天皇の墳らしきものに全くない。単に発見されていないということかもしれないが。百済でもないような気がしている。中国本土か高句麗辺り?根拠というほどのものは何もないのだけれど。

 

 


野口王墓古墳(天武・持統天皇合葬陵)

2022-07-02 | 行った所

甘樫丘の南、ちょうど雷の丘の対象となるようなところに「亀石」がある。

 「飛鳥の謎の石造物」という物の一つなんだろうが、岩を単に見たてるのではなく、人工的に刻んでいる、何なのだろう。亀と言われればそう見えるが、目はカエルのような。下面に格子状の溝があるというが、ひっくり返して見るわけにもいかず、見たところで分からないし。酒船石とかはまあ、水を流したか、くらいには思えるのだが、このカメは何に使うんだ?寺の境界というのもピンとこない。
 亀石が西を向いたら大洪水、という伝承はちょっと怖いかも。

亀石から南西に数百メートル行くと、野口王墓古墳である。

 宮内庁は天武・持統合葬墳として祀っているが、この被葬者にはかなりの根拠がある。鎌倉時代この墓は盗掘にあったのである。そしてその盗賊は捕まった。この話は藤原定家に「明月記」あるほか、高山寺から「阿不幾乃山陵記」と呼ばれるものが発見され、これが時の検非違使による捕まった盗賊の尋問調書と墓の実況検分書であったのだ。それによれば、天武の夾紵棺(乾漆棺)は破られ、天武の骨は放り出されて、遺物はあさられ、火葬された持統の骨壺は狙われ、中の遺骨は捨てられたらしい。石室内に装飾壁画がなかったことは確からしい。


だが、今の目で新たに調査することにはやはり意義があると考える。だいたい八角形の墳形だというが、ちゃんと測量をしているのだろうか。箸墓は空中からのレーザー計測による赤色立体化図があるが、この古墳についてはどうなのだろうか。

 野口王墓から高松塚方向
南に高松塚古墳がある。飛鳥歴史公園の中をぐるりと回っていくと1キロ程度だろうか。更にその南にはキトラ古墳もある。


箸墓とホケノ山古墳

2022-07-02 | 行った所

箸墓古墳は孝霊天皇皇女のヤマトトソモモソヒメの陵墓だといって宮内庁が管理している。

前方後円墳だが全長280メートル、二重の周濠を合わせると400メートル級の巨大古墳だ。(現在古墳の北側にため池があるのだが、これは周濠とは関係ないらしい。)
葺石も確認されており、本格的な古墳がここに出現したといっていい。築造年代は3世紀半ばから4世紀所にかけて、というがこれも諸説あるし、邪馬台国問題も絡み、決着を見ない。本格的発掘調査の見込みはないからどうにもならないだろう。
前方部に宮内庁が設けたお決まりの遥拝所がある。
主軸はずれているが、まあ三輪山を向いている、といえば向いている。

 左の木々がこんもりしているのが箸墓、右手奥に三輪山が見える。
三輪山伝説の三輪の神と交わり、神の正体を見、死んだモモソヒメの墓と思うのはロマンティックでありすぎるだろう。それに大蛇とヒメが交わる伝承は各地にある。しかし何という死に方だろう。箸でホトを突きて、とはどういう発想なのだ?。即死はできそうもない。更にこの神話を載せるものは日本書紀のみだ。記紀神話というものの神話伝承が色濃い古事記にこの話はない。昼は人が作り、夜は神が作った、という箸墓築造話も古事記にはない。

箸墓から数百メートル東にホケノ山古墳がある。全長80メートル、周濠(空堀)葺石があったらしい。前方部は小さく巻向型と呼ばれる。

 段築がわかる


ここは発掘調査されて入れ説明版も整備されているし、駐車場もある。箸墓とは違うのである。
 後円部に石囲い施設の中に割竹型木簡ということで写真を見ると竪穴式石室とは少々違うようだ。

 前方部にも埋葬施設がある。
他に後期の横穴式石室もあるが、これは墳丘を再利用したらしい。

 ホケノ山後円部から箸墓方向
箸墓とホケノ山古墳の間にもう一つ堂ノ前古墳というのがあるが、これも後期の古墳で、箸墓やホケノ山とは全く時代を異にするらしい。


ホケノ山の築造年代は3世紀半ばという弥生と古墳の時代の合わせ目、ということになる。