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ロスチャイルド財閥-156  東京裁判 満州国の阿片ビジネス、そして台湾

2023-01-06 18:57:20 | 国際政治・財閥



https://www.nicovideo.jp/watch/sm41195386?ref=search_tag_video&playlist=eyJ0eXBlIjoic2VhcmNoIiwiY29udGV4dCI6eyJ0YWciOiJcdTMwYTJcdTMwZDhcdTMwZjMiLCJzb3J0S2V5IjoiaG90Iiwic29ydE9yZGVyIjoibm9uZSIsInBhZ2UiOjEsInBhZ2VTaXplIjozMn19&ss_pos=10&ss_id=1bdc3e92-0842-40e0-a01a-1e76dcdce731

 

 





東京裁判

東京裁判(正式名は「極東国際軍事裁判」)は、1946(昭和21)年5月3日(金曜日)に東京市ヶ谷の陸軍士官学校大講堂で開始されました。 

A級戦犯28人の「平和に対する罪」の審議が2年10ケ月間も続き、戦争に負けたから責任を取らされます。「ポツダム宣言」で戦争犯罪人の処罰が明示されており、「敗戦処理」からは逃げれません。 

戦勝国からすれば、「ポツダム宣言」を受諾しておきながら、「正義の戦争」と宣(のたま)う日本無罪論を主張する、戦後、吉田茂や岸信介~安部晋三ら首相に尻尾を振る情けない一部の阿呆な産経新聞などの記者は、支離滅裂な姿にしか映りません。 

東京裁判は市ヶ谷で審理されましたが、「国際裁判」であることをわすれてはなりません。 法理論も国際法が優先されます。







満州の支配者「弐キ参スケ(にきさんすけ)」

満州国は「日・満・漢・蒙・朝」の「語族協和」を唱え、「王道楽土」をスローガンとして、1932(昭和7・満州では大同元年)年に首都を長春(満州国が存在した1932年から1945年まで「新京」と呼ばれた)に置いた。

満州国には「弐キ参スケ」と異名を放った五人の実力者がいた。 「弐キ」とは、満州国総務長官の星野直樹 ほしのなおき(1892-1978年)と関東軍参謀長の東条英機 とうじょうひでき(1884-1948年)。

「参スケ」は、満州国総務庁次長の岸信介 きしのぶすけ(1896-1987年)、満鉄理事の松岡洋祐(1880-1967年)、満州重工業開発株式会社初代総裁の鮎川義介(1880-1967年)だ。


「参スケ」の共通点は、山口県出身(長州藩)で、しかも婚姻関係がある。 彼らは満州で人脈をフル活用した。 「弐キ参スケ」は全員、敗戦後、巣鴨プリズンに拘禁(こうきん)された。

岸信介は「満州国は私の作品」だと豪語したことから「満州の妖怪」とまで言われた。なぜ「弐キ参スケ」は捕まったのか。 日本は満州で何を企んでいたのか。陸軍少将の田中隆吉 たなかりゅうきち(1893-1972年)が証言する。 田中少将は、東京裁判で検察側の承認となり、「内部告発」をした。





田中隆吉の阿片証言

東京裁判の判決では、「日本は満州におけるその工作の経費を賄(まかな)うため」「中国側の抵抗力を弱めるため」に、A級戦犯は阿片売買を認可したと糾弾された。 田中隆吉は、1946(昭和21)年2月25日(月曜日)の非公式尋問で、検察官に驚く情報を提供した。 日本軍の膨大な資料阿片売買だ。 阿片・麻薬関与は、明白な国際法違反。 検察からすれば、立憲しやすい案件となる。

「眠れる獅子」と恐れられていた中国(清国)が二度の「阿片戦争」で完膚(かんぷ)なき惨敗を喫したことを間近で見ていた明治政府は、1868(明治元)年に「阿片烟(あへんえん)を禁じ、府藩県高札に掲示」せよと命じた。大英帝国はすでに阿片で中国人を廃人にしていた。

明治政府は。1870(明治3)年に、「販売阿片烟律」「生阿片取扱い規則」を定め、1880(明治13)年の「旧刑法」(太政官布告第36号)において、阿片の輸入。売買、吸引を禁止し、重罪と課した。 阿片は紫色の煙を放ち、香ばしい香りがする。阿片を一度刷ってしまったら、阿片の魔力から逃げる事は出来ない。・・・・(中略)・・・・・ 田中隆吉の証言によれば、満州国政府の主要な収入源は、阿片・麻薬取引による収益に依存しており、阿片を表向きには統制していたが、「阿片の使用を奨励」する構造となっていた ・・・・・ (中略)・・・・・


この件に関しては資料が膨大なので、別途投稿します。


ロスチャイルド財閥ー20  上海・阿片王サッスーンhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/9ad7cddadc133bc0a51ef005d45fa776

ロスチャイルド財閥ー22 藩王国(はんおうこく;princely state, native state, Indian state)https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0497a951df07d86a5abfa13945a78a9f

ロスチャイルド財閥ー27 幕末・明治維新https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/2355a3b6e6b91eda6703f158d91a9b83

ロスチャイルド財閥-35 大英帝国に太陽の沈む時なしhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/2eb6ca48bccd51d6172b0932afde9beb

 







東京裁判で明らかとなった満州国の阿片ビジネス(概要)

東京裁判の「判決文」を読んでいると、驚くべき事実に遭遇した。「日本の中国に対する侵略」という罪状に「阿片と麻薬」が取り上げられていた。 「東京裁判と阿片」は盲点だ。「判決文」を噛みしめて読むべきだ。  ←これについて、全文は別途投稿します。

日本は満州におけるその工作の経費を賄う(まかなう)ために、また中国側の抵抗力を弱めるために阿片と麻薬の取引を認可し、発展させた・・・・・(中略)・・・・・ 日本軍の進出した中国の到る所で。軍のすぐあとから、朝鮮人や日本人の阿片行商人がついて来て、日本側当局から何の取締も受けずに、その商品を販売した。 

ある場合には、これら阿片密売者は、陰謀、間諜(かんちょう)行為または破壊行為に従事することによって、侵入軍のために準備を整えておくように、侵入軍に先んじて送り込まれた・・・・・(中略)・・・・・1937年以後に、中国の阿片売買に関係していたのは、日本の陸軍、外務省および興亜院(こうあいん)であった。 

三菱商事会社と三井物産会社は、日本、満州国および中国のために、イランの阿片を大量に購入していた。外務省との取決めによって、この二社は1938年3月に、阿片の輸入先と事業の分担範囲とについて協定を結んだ・・・・・(中略)・・・・・

日本と満州国に対する阿片の供給は、三菱によって取り扱わられ、華中と南華に対しては、三井物産が取り扱うことにあっていた。

華北に対する供給は平等に分担し、毎年の毎年の購入高は、日本、満州国および中国の官庁が決定し、二社に通告することになっていた。 興亜院の要請に基いて、この協定は修正され、イラン産阿片買付組合を設立することが規定され、この組合の阿片事業は、上記二社の間に平等に分担されることになった(「A級極東国際軍事裁判記録(和文)極東国際軍事裁判所判決 B部第五章」国立公文書館蔵)。

この判決文に書かれていることは真実なのか。 フーヴァー・トレジャーズの探索を続け、満州の特務機関が作成した阿片の極文書を発見した。 濱田徳海 はまだのりみ(1899-1958年)という人物の関係文書に「阿片文書」が入っていた。

濱田徳海は、大蔵省に勤務していた税務のエキスパート。鹿児島県に生まれ、東京帝国大学法学部在学中に高等文官試験に合格。 1924(大正13)年3月に帝大を卒業した濱田は、大蔵省に入省。 1939(昭和14)年8月から1940(昭和15)年5月にかけて、支那派遣軍司令部付として陸軍顧問を務めた。

日本に帰国後、大臣官房会計課長、専売局理事、1945(昭和20)年1月には中華民国に大使館参事官として在勤。戦後の1946(昭和21)年6月、大蔵事務次官・大臣官房に就いた(「濱田徳海関係文書目録」フーヴァー・トレジャーズ【文書15】)。






日本の傀儡政権「中華民国維新政府」と阿片ビジネス

濱田徳海は、1938(昭和13)年3月28日(月曜日)に成立した日本の傀儡政権「中華民国維新政府」(「維新政府」)で阿片制度を管轄する戒煙局(かいえんきょく)総務課長として実権を握った。 首都を南京(なんきん)と定めた維新政府は、江蘇省、浙江省、安徽(あんき)省を統括。

維新政府は、1940(昭和15)年、汪兆銘 おうちょうめい (1883ー1944年・和仏法律事務学校法政速成科・現在の法政大学に留学) を国民政府主席とした「南京国民政府」に編入される。

日本に協力した汪兆銘は、1942(昭和17)年に「大勲位菊花大綬章(だいくんいきっかだいじゅしょう)」が授与されたが、日本の敗戦一年前に死亡。 しかし、日本が降伏した後、「漢奸 かんかん」(日本に協力した売国奴)と見なされ、1946年に汪兆銘の墓は暴かれ、遺体は灰にされ破棄された。

「濱田徳海文書」には、軍特務部・中支那派遣軍の機密史料をはじめ、極秘扱いにされた阿片の文献が含まれている。 満州国の税務調査をするために濱田徳海が使用した史料だ。 具体的には、「(極秘)近時支那阿片制度実施要領」(フーバー・トレジャーズ【文書16】)「(極秘)広東阿片麻薬制度に関する参考資料」(【文書17】)「(極秘)広東 阿片麻薬制度実施要領(案)」(【文書18】)「(極秘)近時支那阿片問題及阿片政策」(【文書19】)など貴重な資料だ。

とくに「(極秘)近時支那阿片問題及阿片政策」は、100ページ以上の阿片政策を詳細に分析した報告書である。


特務機関が作成した史料が表に出ることは滅多にない。何故なら、特務機関は跡を残したくないからだ。 文書を配布する相手も少数に限定される。 国際法に反する阿片商売の史料は隠匿(いんとく)される。

フーヴァー・トレジャーズから日本の阿片「極秘史料」が膨大に出てきたのは、奇跡に近い。 おおくの機密史料が焼却されたにもかかわらず、「超極秘史料」が何故残存したのか。 日本政府の公文書に対する認識の甘さが史実を探求する我々に「運」をもたらした。 日本では公文書が「私文書」として残される傾向が強い。 とくに近代史の文書には、「行使の境界」が曖昧だ。官僚が作成した文書は公的なものだが、決裁文書などを除くと、ほとんどの資料が個人の手元に残される(加藤『敗戦と公文書廃棄』)。

濱田徳海は1946(昭和21)年に大蔵省を退官シ、1958(昭和33)年に58歳で亡くなっている。 占領下日本で、フーヴァー研究所東京オフィスが濱田徳海の「私文書」を蒐集(しゅうしゅう)したのだ。 貴重な食糧、酒、タバコと世界一強いドルの札束を眼の前に積まれれば、すでに役に立たない山積みの文書なぞ喜んで差し出したのだろう。





台湾・蒋介石と阿片

中国国民党の蒋介石(1887-1975年)は、厳格な阿片禁煙政策を実施した。 蒋介石は、日本の軍人養成学校「東京振武(しんぶ)学校」を卒業して、日本の陸軍士官候補生として訓練を積む。 1911年に「辛亥革命」が起こると中国に帰国し、孫文(1866-1925年・中国国民党総理)と共に行動して中国共産党と敵対。 日中戦争の勃発により、一時的に毛沢東の共産党と手を結ぶが、日本が敗れると二人はすぐに戦争を始めた。

負け続けた蒋介石は、1949年12月に台湾に逃亡。 支那王朝の貴重な国宝も台湾へ運ばれた。 「阿片報告書」 によると、蒋介石は「あたかも親の敵の如く怨みて」阿片の禁止令を実践している。 1926年から1928年にかけて行われた「北洋軍閥打倒作戦」(北伐)で軍閥制圧に成功し、南京に遷都した蒋介石は、近代文明を装い、積極的な禁煙政策にとりかかった。 阿片国際条約に沿うように法律を作成したが、あまりにも厳しい禁煙政策を実施したので、阿片が志那不足になり価格が高騰した。

ところが、これは蒋介石の表向きの政策に過ぎない。阿片価格が高騰するのを見越して。蒋介石は外国阿片を密輸入。 阿片価格をさらに釣りあげて、巨額の利益を得たと「阿片報告書」は分析している。 信仰軍閥である蒋介石の軍資金は、阿片だ。 中国では「禁煙即ち軍閥、政権の阿片よりの収入強大化策なり」と云われたほどだ。

「阿片報告書」は踏み込んで、中国の禁煙政策は矛盾していると指摘する。 法律では阿片は厳禁と謳っておきながら、阿片税による巨額の税収を期待しているからだ。蒋介石は1941(民国30)年までには阿片を中国大陸から撤廃すると断言するが、このような「禁煙政策は支那の財政状態に鑑みてその実行困難なり」と結論付けた。・・・・・ (中略)・・・・・

中国の阿片取引で大活躍したのが(岸信介の盟友)民間人の里見甫 さとみはじめ(1896-1965年・中国名「李鵬」)である。・・・・・(中略)・・・・・ 阿片の実態を公然と証言した 里見は、その日のうちに無条件で巣鴨プリズンから釈放された。 東京裁判で検察側の証人ろして表舞台に上がり、阿片売買の実態を証言することが保釈の条件だった。

表舞台から姿を消した里見は、1965(昭和40)年3月21日(日曜日)に心臓発作に襲われ、自宅で亡くなる。 享年69。 里見甫の墓は、千葉県市川市の里見公園(里見八景園の跡地)を見下ろす安国山総寧(そうねい)寺にある。 この墓石の「里見家の墓」という五文字は、岸信介が書いたものである。 なぜ「満州の参スケ」の岸が里見の墓碑(ぼひ)を執筆するのか。

岸信介は、1942(昭和17)年4月の翼賛選挙で、当時の資金で500万円里見に依頼していたほど、二人は公私にわたり親密な関係だったからだ。(伊達宗嗣「里見のこと」『続・現代史資料(12)阿片問題』)






里見甫 宣誓口述書
極東国際軍事裁判

宣誓書
私即ち李鵬事里見甫は良心にかけて次の事が真実である事を誓います。

1937年9月または10月私は新聞記者として上海に参りました。 私はそれ以前天津に居たのであります。 1938年1月または2月に楠本実隆(くすもとsねたか)中佐(註・1890-1979年・陸軍中将・関東軍司令部付満州国軍政部最高顧問)が私に特務部のために多量の阿片を売ってくれるかどうか尋ねました。 彼はこの阿片がペルシャから来る途中にあると云いました。

特務部は支那派遣日本軍司令官の参謀部の一部でありました。 その職務は日本占領地域に於ける政治的、経済的、文化的諸問題を取扱うにありました。 この多量の阿片は1938年の春上海に到着いたしました。 それは軍隊の使用する埠頭にある倉庫の中に納められました。 埠頭にも倉庫にも衛兵がついて居りました。 ペルシャの阿片は160ポンドの箱、即ち1920両づつの箱に入れられてきました(註・160ポンドは約72.6kg、一両は約38gで1920両は約73kg)。

阿片がペルシャから到着した時、私は少量づつ支那の証人に売り始めました。 私が支那のから阿片の注文を受けると、私は特務部に部下を遣わすことにしていました。 特務部から私の部下にどれほどの阿片を渡せと云う命令を倉庫にあてて発しました。 倉庫では阿片を倉庫から引き出してその証人に渡すようにしていました。 時間と場所は予め取り決めてありました。

支払いは阿片を引き渡した時に商人がなされました。私が阿片の販売から得た金は私自身の名義で台湾銀行に預金致しました。 月一回または二回私は楠本中佐に報告をいたしました。

私の阿片販売値段は特務部の将校と私との間で協議して決めました。 私は彼らに当時の市価を知らせ、私が販売する値段について指示致しました。 この手順は特務部が承認致しました。 特務部の指令により私は、私の名義で貯めてある金から原価を貢物産会社に支払い、私自身の諸費用を差し引いた残高を特務部に支払いました。

ペルシャからの阿片の積み荷が就いた時から1939年3月維新政府が形成される迄、私は阿片を支那人、阿片商人に売り、上に述べた如き方法により支払いをいたしておりました。維新政府の設立と同時に上海における特務部が解散になりました。 しかし、興亜院の支部が設立されました。 その職務は支那の占領地域に於ける日本政府の政治的、経済的、文化的事柄を取扱うことにありました。 楠本中佐は興亜院上海支部の副支部長になりました。

興亜院の経済部は阿片と麻酔剤を担当しておりました。 興亜院は阿片の取扱いを維新政府に引き渡す事に決めました。維新政府は内政部の下に戒煙総局をつくりました。 阿片の分配のために宏済善堂がつくられました。 それは商業会社で、その株主は8つの大きな阿片商でありました。 ・・・・・(中略)・・・・・ 宏済善堂の契約および諸規定は維新政府との協議の後、興亜院により起草されました。 興亜院の承認により私は副董事長の椅子につく事を引き受ける事ができました。

戒煙総局は宏済善堂に対し、阿片分配の特別許可を出しました。 特務部がそれまでに持っていた未販売の阿片は彼らの手で興亜院に移され、興亜院はさらに戒煙総局に引き渡しました。

1939年の末頃には宏済善堂は蒙古阿片をも販売いたしておりました。 蒙古阿片は蒙古から鉄道、飛行機および船舶により運ばれました。しかしながら、その大部分は中華航空株式会社所有の飛行機により運ばれました。この蒙古からの阿片はペルシャ阿片とは別途に取り扱われました。 ・・・・・(中略)・・・・・

宏済善堂の売った阿片の値段は蒙古政府に居払うべき阿片の値段に運賃および保険料、戒煙ス局によって決められた関税及び税、それに宏済善堂の手取りとなる8%以下の手数料を加えた値段で売られました。 興亜院は蒙古政府に支払うべき値を決定し、興亜院の方針は蒙古政府の利得を能う限り大きくすることになりました。 宏済善堂がペルシャ阿片で儲けた利益は約2千万ドル(註・現在の日本円で1200億円)にも及びましたが、それは特総部のある間は特捜部に、それがなくなってからは興亜院によって決定されました。 ・・・・・ (中略)・・・・・

宏済善堂の売った阿片の量は1941年に最高に達しました。 私の売った阿片の量は全体でいくらであったかは正確には記憶致しておりませんが、大体ペルシャ阿片4千函(かん)、蒙古阿片一千万両ほどであたと思います。 阿片吸飲者の数についての正確な統計は一度もつくられた事がありませんでした。 宏済善堂はヘロインまたはモルヒネの製造及至販売には手を着けませんでした。 しかし、私は大連および天津から相当のヘロインが上海に密輸入されたと信じます。 それは阿片を買って数だけの金のない者たちによって用いられました。

里見甫
1946年6月28日




出所 『占領神話のj崩壊』 著者:西鋭夫・岡崎匡史、発行:中央公論新社  
西鋭夫 : スタンフォード大学フーヴァー研究所・教授
岡崎匡史:元スタンフォード大学フーヴァー研究所・リサーチフェロー

*占領期の日本から多くの公文書が密かに米国に持ち出されていた。 スタンフォード大学・フーヴァー研究所に手付かずのまま残された数万枚に及ぶ極秘文書。これらを徹底的に調査し、新たな発見をもとに、隠蔽された歴史の真実にせまる。





そして、満州国の闇は、阿片問題に留まらず、RAA慰安所問題、さらに最近話題となっている統一教会と岸信介~安倍晋三の関係にも連なっていきます。

これについては別途詳しく説明します。


最古参教団元幹部が初証言/安倍家三代と旧統一教会【12月28日(水)#報道1930】https://www.youtube.com/watch?v=MvQ03QVerGc

ロスチャイルド財閥-153 (1/2) RAA(特殊慰安施設協会:実態は日本の婦女子を使った売春慰安所)と新憲法成立https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/908e0d440f4b25304e3f51a68268af58

ロスチャイルド財閥-153 (2/2) RAA(特殊慰安施設協会:実態は日本の婦女子を使った売春慰安所)と新憲法成立https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/fddd4a30968ea3102a3364b01e8788f5

 







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ロスチャイルド財閥-155  東京裁判 暗躍する吉田茂

2023-01-06 01:00:09 | 国際政治・財閥

吉田茂(1878年 - 1967年)戦後初の内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)



東京裁判

東京裁判(正式名は「極東国際軍事裁判」)は、1946(昭和21)年5月3日(金曜日)に東京市ヶ谷の陸軍士官学校大講堂で開始されました。 

A級戦犯28人の「平和に対する罪」の審議が2年10ケ月間も続き、戦争に負けたから責任を取らされます。「ポツダム宣言」で戦争犯罪人の処罰が明示されており、「敗戦処理」からは逃げれません。 

戦勝国からすれば、「ポツダム宣言」を受諾しておきながら、「正義の戦争」と宣(のたま)う日本無罪論を主張する、戦後、吉田茂や岸信介~安部晋三ら首相に尻尾を振る情けない一部の阿呆な産経新聞などの記者は、支離滅裂な姿にしか映りません。 

東京裁判は市ヶ谷で審理されましたが、「国際裁判」であることをわすれてはなりません。 法理論も国際法が優先されます。






暗躍する吉田茂

「戦犯」や「公職追放」される身の危険を感じた政治家たちのなかには、GHQや検察に協力する者がでてくる。 俗にいえば、己の身をまもるために戦友・友達・知人を裏切るのだ。 

日本国憲法制定の章で言及したように、1946(っ昭和21)年2月13日(水曜日)、ホイットニー准将に極右の保守政治家のままでは政治生命が絶たれると脅された吉田茂は、急速に左傾化していった(フーヴァー・トレジャーズ【文書二】)。

1946年3月、吉田外相は秘密裡に日本の外交記録を検察に提供。
吉田の斡旋で、検察局は日米交渉の外交飼料資料を入手。 吉田は、飼料を提供することで、検察活動に大貢献した(栗屋『東京裁判への道』)。 

太平洋戦争の宣戦布告遅配という失態を犯し、「真珠湾騙し討ち」の汚名を着せられる原因を作った外務省は積極的に協力した。

1948(昭和23)年12月13日(月曜日)に外務省官房文書課が作成した「文書課記録班担当の極東軍事裁判関係事務概略」によると、1945(昭和)20年11月上旬にかけてGHQの職員が外務省の記録や残存記録を査察。 翌年の1月15日(火曜日)以降、東京に設立された米陸軍省・海軍省の共同で運営された日本語文献を扱う「ワシントン・ドキュメント・センター」(Washington Document Center・WDC)の係員一行が外務省の記録を査閲した。

GHQが必要とする資料は接収されることになり、2月9日(土曜日)に「大袋入り43個その他内容目録」がワシントン・ドキュメント・センター(WDC)に引き渡された。この膨大な文書は「郵船ビル内のWDC事務所に収納されたが、一部は市ヶ谷極東軍事裁判所内に移され、同裁判に資料として使用された」(外務省『日本外交文書 占領期 第二巻』61書房・2017年)。


吉田茂はこの動きに呼応し、協力を惜しまない。 戦争犯罪を追及することが免罪符になるからだ。吉田は進んで外務省の文書をGHQに提供して、己の地位と権力を安泰にした。

裁判が始まってからも、外務省は検察団(International Prosecution Section・IPS)から資料を求められたが、「如何なるものが要求されたか後になって解らなくなったものが相当数ある」

「提出文書の控えをとっておくのが原則であるが、非常に急がれた時はコピーをとる余裕なく、この点か、何を無いと云ったか全然不明と「IPSにないと拒(すま)ったものが、弁護団から提出されて、IPSから厳重抗議され、書類整備の必要から公文書類提出については、文書課長の下で記録班が外務省に対する要求を一括取り扱う事となった」という(外務省『日本外交文書 占領期 第二巻』)。

当時、吉田茂や外務省に強い不信を抱く人物もいた。 A級戦犯として起訴された橋本欽五郎(1850-1957年・参謀本部ロシア班長・大日本青年党総裁・衆議院議員)の弁護人である林逸郎(1892-1965年)は、1920(大正9)年に東京帝大を卒業して弁護士となり、刑事部を専門に扱い、東京第二弁護士会会長を務めた人物だ。

林は、「日本人弁護団にたいして、当時、外務省が終止不協力の態度をとったことは、あまりにも明確なことであった」と証言する。 満州事変の審議のときがひどく、「陸軍側の主張を裏書きするような有利な証拠は、外務省にいくらでもあるはずだ」と強く主張したが、外務省が提出した書類は陸軍だけでなく「日本にとって不利になる情報ばかりであった」と外務省に対して怒りをぶちまけた。

林弁護士は、戦争には負けたが「裁判にだけは勝たねばならない」と奮闘しており、なけなしの財産を処分してまで弁護にあたっていた。 林は、裁判の証拠資料を固めるためアシスタントを何度も外務省に出向かせ、関連文書の提供を求めた。

ところが、外務省は「そんなものは見当たらないとの」一点張りで、まるでノレンに腕押しだったという。 林は「当時の外務省の役人らは、東京裁判に対しては、このように非協力的であったのだ。
その理由は、いまだに解せない」と不満を漏らしている(林逸郎『敗者』二見書房・1960年)。

外務省文書課の報告によると、日本弁護団からの資料要求,とくに「外務省関係の弁護人はその主力が外務省の先輩であった為、個人的関係を経由して(現役省員)資料を要求してきた。 従って記録を貸し出す時、仮に来た人が裁判に使用する為と明言しない時は記録班では解らず、通常の貸出をしていた」「最も困難を感じた時は、現在外務省が保有していない文書類が退官者の手元にあり、これらが弁護人にさがし出された事である」と記されている(外務省『日本外交文書 占領期 第二巻』)。

ここからも日本の公文書管理のいい加減さが垣間見れる。

林弁護士の被告人は、陸軍大学卒の橋本欽五郎。 A級戦犯の弁護に非協力的であった外務省は、宣戦布告の遅配を隠蔽するため、また遅配の原因を作った大本営の陸軍に復習するために、ことさら陸軍に都合の悪い資料だけを提供したのだろう。

吉田茂は軍国主義の「一味徒党」(軍人・官僚・右翼・財閥)を排除し、対米協調にもなる・鈴木内閣外相東京裁判を歓迎していた。 たとえば、元外務大臣の東郷重徳しげのり(1882-1950年・東京帝大独文科卒・東条内閣外相・鈴木内閣外相・東京裁判で禁固20年の判決を受ける)の嘆願書に署名を求められた際、

吉田は「東郷君は開戦時の外務大臣だから日米交渉が失敗に帰した際に潔く責任を取って辞めるべきであったのに、便々(べんべん)としてその後も外相として居座ったのは、はなはだ心得難い」と断った(日墓吉延『東京裁判』講談社現代新書・2008年)。
                               
出所 『占領神話の崩壊』 著者:西鋭夫・岡崎匡史、発行:中央公論新社  
西鋭夫 : スタンフォード大学フーヴァー研究所・教授
岡崎匡史:元スタンフォード大学フーヴァー研究所・リサーチフェロー

*占領期の日本から多くの公文書が密かに米国に持ち出されていた。 スタンフォード大学・フーヴァー研究所に手付かずのまま残された数万枚に及ぶ極秘文書。これらを徹底的に調査し、新たな発見をもとに、隠蔽された歴史の真実にせまる。








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