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#690 トランプとイーロンマスクを虜にするキーパーソン

2024-12-12 02:01:05 | 世界史を変えた女スパイたち

#690 トランプとイーロンマスクを虜にするキーパーソン

https://www.youtube.com/watch?v=c6ZsHI0iHg4

 

 

(関連情報)

 


・世界史を変えた女スパイたち 6選 ← ココ・シャネル追加しました

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アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト 全文

2024-12-01 22:59:25 | 世界史を変えた女スパイたち

  

    Anna Louise Strong
アンナ・ルイーズ・ストロング ( 1885年– 1970年)

 

 

・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-1  生い立ち
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0bee76a2186e149983f1bb4760f410dd


・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-2 スターリンと毛沢東の広告塔
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/3cf026605349c36fbd68a6a2bcd0b3e5


・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-3  周恩来との蜜月https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/3261339636c9d16896dd105fffbf0456


・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-4  毛沢東が愛した西洋女アン
                            ナ・ストロン
グの死https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/a4753974e2f3c0bed3102853a2228763

 

 

 

 

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アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-4  毛沢東が愛した西洋女 アンナ・ストロングの死

2024-11-29 11:56:24 | 世界史を変えた女スパイたち

    Anna Louise Strong
アンナ・ルイーズ・ストロング ( 1885年– 1970年)

 

・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-1  生い立ち

https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0bee76a2186e149983f1bb4760f410dd
・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-2 スターリンと毛沢東の広告塔

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・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-3  周恩来との蜜月

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からの続き

 

 

 

一九四九年、中国共産党へのあまりの肩入れをスターリンは警告した。 彼女を米国のスパイとして、ルビャンカ監獄に収容した。 この頃の彼女は、英字紙『モスクワ・ニューズ』の編集に携わっていた。

同紙の編集スタッフのほとんどが逮捕された。彼女の上司ミハイル・ボロディンも逮捕されている。ボロディンは一九二〇年代半ばには、孫文の政治顧問として容共思想の孫文を操った人物であった。

 

彼女は数日で解放されたが、国外追放となった。 スターリンの悪行をウォルター・デュランティ(ニューヨークタイムズ・モスクワ支局長)とともに擁護し続けてきた彼女が、共産主義思想の本質に気付く良い機会の筈であったが、そうはならなかった。

モスクワを追放されたストロングは、カリフォルニアに住んだ。 共産主義思想啓蒙の講演や不動産投資で暮らしていた彼女に、米国政府はパスポートの発給を拒否していたが、一九五五年、ソビエトが彼女への嫌疑を公式に抹消したことから、パスポートの発給を許した(一九五八年)。

それを待ちかねたように、ストロングは憧れの国、中共(中華人民共和国)に飛んだ。 彼女の夢の国家は一九四九年に成立していた。

 

七三歳になっていた彼女の訪中を、中国共産党幹部は喜んだ。 毛沢東は、彼女に共産党幹部に匹敵する処遇を与えた。 高級アパートに住まわせ、自動車や専属の料理人と秘書まで用意した。 海外の要人歓迎では、英語の堪能な彼女は良きホステス役となった。

 

日常生活では、タイプライターに向かい、「新生中国が労働者の楽園であり、晩年を送るには理想の国(ideal  resting place)」と礼賛する西側世界への手紙(Letter ffrom China)を書き綴った。 もちろん、このような待遇は、毛沢東に愛されたアンナ・ストロングだけの話である。

 

「中国では、年寄りは尊敬され大事にされる。 米国は老人を放置し、勝手に死ねという態度である」といったデタラメを垂れ流した。 紅衛兵が荒れ狂った文化大革命も彼女は容認(礼賛)した。

 

毛沢東は、そんな彼女が可愛くてならなかった。 彼女の八〇歳の誕生日では、盛大なパーチを催した。その四年後ストロングは亡くなった(一九七〇年)。 国葬とされた彼女の遺体はスメドレーと同じく、北京八宝山革命共同墓地に眠る。

葬儀に列席した周恩来の腕には『アンナ・ストロングを永遠に忘れない(May Annna Strong Live Foever in our Memory)』 と書かれた腕章が巻かれていた。

 

 

END

 

 

 

(関連情報)

・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-1  生い立ち
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0bee76a2186e149983f1bb4760f410dd
・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-2 スターリンと毛沢東の広告塔

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・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-3  周恩来との蜜月

https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/3261339636c9d16896dd105fffbf0456

・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-4  毛沢東が愛した西洋
                            女アンナ・ストロン
                            グの死
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/a4753974e2f3c0bed3102853a2228763

 

 

・アグネス・スメドレー 中国共産党に尽くした女スパイ  全記事
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/3a379720a527757e620a92167b23a969

 

 

 


アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-3  周恩来との蜜月

2024-11-21 16:01:42 | 世界史を変えた女スパイたち


    Anna Louise Strong
アンナ・ルイーズ・ストロング ( 1885年– 1970年)

 

 

・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-1  生い立ち
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/0bee76a2186e149983f1bb4760f410dd
アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-2 スターリンと毛沢東の広告塔
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からの続き

 

 

彼女と周恩来との関係も深かった。 一九四〇年一二月末、五十五歳の彼女は四度目の訪中を果たした。 この頃、周恩来は西安事件(一九三六年)以来の国共合作が蒋介石によってなし崩しになっている(裏切られている)と危惧していた。 周恩来は、重慶を訪れた彼女と数日間にわたって話し込んだ。

周恩来は、過去二年間に渡り蒋介石が共産党敵視政策を取っている、その態度を矯正させるためには米国の『指導』が必要だと彼女に訴えたのである。

 

「周恩来は、国民党の狙いをくわしく彼女に見せ、二六頁にも及ぶ資料を提供した。 周は、この資料を適当な時期に公開して欲しいとストロングに頼み込んだ。 彼女はそれを引き受けた。 彼女には、周から懇願されること自体が名誉であった」(Global Times

当時の中国共産党は、可能な限り「偽りの」国共合作を継続し、その軍事力を強化温存したい時期であった。 共産党の底意を知っている蒋介石の動きを牽制できるのは米国だけである。

 

アンナが院何事変(South Anbui Incident )発生の報を聞いたのは、米国への一時帰国の帰途であった。 四一年一月四日、共産党支配下の新四軍一万弱が案微省で、国民党軍およそ八万により、ほぼ壊滅したのである。 周恩来の用意した蒋介石批判資料の発表の時期を窺うストロングに、マニラから差出人不明の航空便が届いたのは一九四二年二月初めのことである。 

そこにはようやくその時期が来たと書かれていた。 更に壊滅した新四軍が再編成されたことや、中国共産党革命軍事委員会の声明文書も同封されていた。 当該文書は、重慶には親日グループが暗躍し、中国を日独伊枢軸メンバーにしようとする動きがあると書かれていた。

 

この頃の米メディアは中国共産党を擁護するニュースを流すことには、ととえそれがスクープの色合いが強かったとしても、中所があった。 ストロングはそうした空気の中で、ようやくニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙へ記事掲載を実現させた。 中国共産党が準備した虚実の入り乱れた蒋介石批判の情報は、米国の政治家や国民に衝撃を与えた。

先にストロングが毛沢東とのインタビュー(一九四六年八月)を成功させたと書いた。この年六月の訪中は五回目であったが、中国共産党がもろ手を挙げて彼女を歓迎し、毛沢東とのインタビューを許したのは彼女の第五列としての『価値』を高く評価したからだった。

彼女がこの旅を終えたのは翌一九四七年初めのことであったが、「この地(中国)にいつまでも暮らしたい」と手紙に残していた。 中国共産党にぞっこんであったことが知れる。

 

一九四九年、中⒢句共産党へのあまりの肩入れをスターリンは警戒した。 彼女を米国政府のスパイとしてルビャンカ監獄に収監した。 この頃の彼女は、英字紙『モスクワ・ニューズ』の編集に携わっていた。 同紙の編集スタッフのほとんどが逮捕された。 彼女の上司ミハイル・ボロディンも逮捕されている。

ボロディンは、一九二〇年代半ばには、孫文の政治顧問として容共思想の孫文を操った人物だった。

 

 

 

 

 

・アンナ・ストロング:赤いアメリカのジャーナリスト-4 毛沢東が愛した西洋
                            女アンナ・ストロン
                            グの死
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 に続く