情報通信研究機構(NICT)では、原子の発光スペクトルを活用したクロック安定化技術のオンチップ実装を目指している。
本誌2020年6月号Perspective「原子時計のチップ化が導く、高精度デジタルツイン」では、高安定なクロックチップを小型化し、様々なデバイスに組み込むことによって得られる社会的インパクトについて述べた。
本稿では、この高安定なクロックチップを実現するためのキー技術について紹介する。
現在、セシウム(Cs)ビームを利用したラックマウントサイズの原子時計が各国の時刻標準の生成に広く採用されている(図1)。
情報通信研究機構(NICT)にも18台のCsビーム型原子時計†が配備され、水素メーザー†や原子泉型†の周波数標準と組み合わせて日本標準時(Japan Standard Time:JST)の生成を担っている。
Csの吸収遷移、いわゆる時計遷移がSI単位系の秒の定義として1967年に採用され、その後、GPS衛星への搭載とともに、原子時計は堅牢な筐体への収納・集積が進み、計測器サイズのラックマウントへと進化していった。
しかし、ラックマウント実装は可搬ではあるものの、ハンドキャリーには重厚で、先進デバイスとなるエッジサーバーや携帯端末への高精度な周波数/時刻標準源の搭載には、さらなる技術革新を必要とした。
詳細は後述するが、原子時計の小型化の契機となったのは、1993年のCPT(Coherent Population Trapping)共鳴を利用した周波数標準器の提案1)である(別掲記事「CPT共鳴とそれを活用した周波数標準」を参照)。
本方式は原子からの時計遷移を原子への変調レーザーの照射のみで取得することができるため、原子ビームを生成する加熱炉やマイクロ波干渉を得る導波管など、微細化が困難な装置類を原子時計から除去できる可能性が示された。
そして、2000年代に入り、MEMSパッケージやレーザー受発光素子のチップ化・低コスト化が成熟し、米国国立標準技術研究所(National Institute of Standards and Technology:NIST)を中心にCPT方式を用いた小型原子時計の実装が報告され、モジュールデバイスとして市販されるに至った2)3)。
このMEMS技術を活用したNISTの報告は世界に大きな衝撃を与えた。
小型原子時計モジュールは、国防的な意図を持った大規模プロジェクトの下、開発が進められたが、今後は、当該技術に集積回路技術や微細加工技術を詰め込み、格段の小型・低コスト化を図って民生用途の市場へ浸透・拡散を図るフェーズへとシフトチェンジしていくだろう。
そして、このフェーズは我が国が得意としてきた精緻(せいち)なキャッチアップ戦略と整合する。
チップ化への道しるべ
CPT方式を用いた小型原子時計モジュールの開発は、NISTから欧州、中国そして日本へと波及した注1)。
情NICTにおいても、ここからさらに小型化を推進し、オンチップレベルにまで集積化する研究を進めている。
CPT原子時計のシステムブロックを図2(a)に示す。
原子時計はガスセルを含む量子光学系①と高周波発振系③、そして、量子光学系からスペクトルを得て高周波発振器へ周波数補正用のエラー信号を供給するデジタル判別系②の3つのシステムからなる。
この3つの中で、高周波発振器とデジタル判別器とが消費電力とボード面積の70%近くを占有することが知られている7)。
特に、高周波発振器は水晶発振器などの多数のオフチップ部品から構成されていることから、小型化・低消費電力化の余地が大きいと考えられる。
そこで、我々は、水晶発振器とPLL(Phase Locked Loop)ベースの周波数逓倍器からなる従来の高周波発振器ではなく、MEMS(Micro Electro Mechanical Systems)技術を活用したBAW(Bulk Acoustic Wave、体積弾性波)発振器に着目した。
これにより、高周波発振器はBAW素子と増幅器のみで構成され、さらにワンチップ化も視野に入れることが可能となる。
1)N.Cyr et al., “All-optical microwave frequency standard:a proposal," IEEE Trans. Instrumentation and Measurement, vol.42, pp.640, 1993.
2)J.Kitching et al., “Miniature vapor-cell atomic-frequency reference," Appl. Phys. Lett., Vol.81(3), pp.553, 2002.
3)R.Lutwak et al., “The MAC-a miniature atomic clock," in Proc. IEEE IFCS 2005, pp.752, 2005
4)J.Haesler et al., “Swiss miniature atomic clock:First prototype and preliminary results," in Proc. EFTF 2012, pp.312, 2012.
5)J.Zhao et al., “Chip scale atomic resonator frequency stabilization system with ultra-low power consumption for optoelectronic oscillators," IEEE Trans. Ultrason. Ferroelectr. Freq. Control., Vol.63(7), pp.1022, 2016.
6)H.Zhang et al., “ULPAC:a miniatured ultralow-power atomic clock," IEEE J.Solid-State Circuits, Vol.54(11), pp.3135, 2019.
7)R.Lutwak, “Principles of atomic clocks," in Tutorial Material of the IEEE IFCS 2011.
8)M.Hara et al., “Microwave oscillator using piezoelectric thin-film resonator aiming for ultraminiaturization of atomic clock," Rev. Sci. Instrum., Vol.89(10), 105002, 2018.
9)M.Hara et al., “Drift-free FBAR oscillator using an atomic-resonance-stabilization technique," IEEE IUS2019, pp.2178, 2019.
10)H.Nishino et al., “A reflection-type vapor cell using anisotropic etching of silicon for micro atomic clocks," Appl. Phys. Express, Vol.12(7), 072012, 2019.
11)H.Nishino et al., “A reflection type vapor cell based on local anodic bonding of 45°mirrors for micro atomic clock," in Proc. Transducers & Eurosensors XXXIII, pp.1530, 2019.
12)Y. Yano et al., “Micro-device-technologies toward chip level integration of Microwave Atomic Clock System," in Proc IEEE IFCS2020, 2020.
13)J.S.Hodge et al., “Timekeeping with electron spin states in diamond," Phys. Rev. A, 87, 032118, 2013.
14)R.T.Harding et al., “Spin resonance clock transition of the endohedral fullerene 15N@C60," Phys. Rev. Lett., 119, 140801, 2017.
15)S.Knappe et al., “Advances in chip-scale atomic frequency references at NIST," in Proc. SPIE, Vol. 6673, 667307, 2007.
16)Y.Yano et al., “High-contrast coherent population trapping based on crossed polarizers method," IEEE Trans. Ultrason. Ferroelectr. Freq. Control, Vol. 61(12), pp.1953, 2014.
17)M.Hara et al., “Injection Locking Type 1/2 Frequency Divider Employing Poezoelectic MEMS resonator for Simplifying the Micro Atomic Clock System," in Proc IEEE MEMS 2020, pp.1195, 2020.
18)J.F.DeNatale et al., “Compact, low-power chip-scale atomic clock," in Proc. IEEE/ION Position, Location Navigat. Symp., pp. 67, 2008.
19)D.W.Youngner et al., “A manufacturable chip-scale atomic clock," in Proc. Int. Solid-State Sensors, Actuat. Microsyst. Conf., Jun. 2007, pp.39, 2007
量子論において、光と原子の相互作用が、電子軌道に由来する離散的なエネルギー準位で説明できることはよく知られている。
Coherent Population Trapping(CPT)は図A-1(a)に示すような特徴的なエネルギー準位(3準位系)にて生じる一種の透明化現象である。
3準位系において吸収による蛍光スペクトル中に狭線幅な暗線が観測されることが知られており、1970年代後半にはその現象の理論付けがなされた。
理論の詳細にここでは立ち入らないが、現象だけを述べると、図A-1(a)においてIとIIの準位への直接遷移が禁止されている場合、吸収はIからIII(波長λ13)とIIからIII(波長λ23)の2つの遷移のみで生じる。
しかし、λ13とλ23の光が同時に原子に照射されると、相互作用はキャンセルされ、蛍光現象も止まり、暗線を生じる。これがCPT現象である。
![図A-2 CPT原子時計の簡略した原理図](https://cdn-xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/01267/00056/z0a-2.jpg?__scale=w:500,h:292&_sh=0d70530d20)
図A-2 CPT原子時計の簡略した原理図
CPT原子時計のシステムでは、λ13とλ23の間の波長λ0(λ0=|λ13+λ23|/2)を有するレーザーを準備する。
このとき、λmodに相当する周波数でレーザーを変調したとすると、λ0±λmodなるサイドピークが生成される。
この新たに生成されるサイドピークを原子と相互作用させると、変調周波数がλmod0=|λ13−λ23|/2に相当するとき、CPT現象が発現し、透過光強度が最大となる。
今、λ13とλ23の遷移を時計遷移と考えると、透過光強度が最大となるように変調周波数を制御することで、原子時計動作が得られ、変調周波数は時計遷移周波数の半分の周波数で安定化されることとなる。
出典:日経エレクトロニクス、2020年9月号 pp.85-88,93
記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります。