◆深草観音(ふかくさかんのん)フィールドワークを通じて◆
こんにちは、山梨県立大学3年の細貝久遠と土橋優心です。
6月29日、県立大学3年生の僕達が所属するゼミの一環としてフィールドワークを行い、深草観音を訪れました!
私たち自身はこのフィールドワークに取り組む前、甲府市街地の近くに古くから存在する厳かな場所があるとは思いもよりませんでした。
▼石碑
かつてを振り返り、実際に自身の足で現地まで赴きながら、昔の人たちはどのような思いを持って山に入り、何を見て何を感じたのか、そして当時の信仰の具体的な様子や信念を知るために取材してきました!本ブログでは、その時の体験を写真とともにレポートします!
- スタート
【積翠寺】
当時の井戸が残っている?!
まず、僕たちが行ったのは積翠寺。このお寺と武田家のつながりは非常に深く、1521年に武田信玄公がこのお寺で生まれたと言われており、お寺の屋根には武田家の家紋である武田菱がいくつも掲げられています。今川軍から信虎夫人をかくまった場所としても知られており、多様な植物が生えていて、その多くは漢方薬として使えるものだとのこと。奥には井戸があり、この井戸は信玄公の産湯(新生児を洗う湯)の際に使用したそう。残念ながら現在は土で埋まっていました。
私たちがショックを受けたのはお寺にある蔵についての説明をされた時です。お寺の裏の方に立派な蔵があるのですが、ところどころ壁に穴が開いていたり、さびれた様相を呈しています。なぜなのか気になったため先生に聞いたところ、お金がないから直すことができないので、やむを得ずこのままにしてあると教えていただきました。修繕にはお金が必要なのは当然ですが、このような歴史ある建物がただ朽ちていくのを受け入れざるを得ないという事実は本当に悲しいものだと感じました。
立派な不動明王
信玄公の横で、紅く燃えさかる炎のような不動明王。「怒り」を表しているそう。なぜ不動明王なのか?それには理由があります。信玄公は不動明王をあつく信仰しており、仏師と対面して自身の等身大の姿を不動尊に模して造らせた像が残っているほどなのです。ちなみに、その像は「武田不動尊」と呼ばれ、現在は山梨県の恵林寺と菩提寺で保管されているそうです
一通り積翠寺を見学してから、いよいよ深草観音に向け出発!朝霧も相まって厳かな雰囲気が漂っており、当時の人達も同じようなことを感じていたのだろうかと思いました。
虫除けスプレーを入念に行い、いざ出発!(足元は特に!)
【深草観音】
深草観音までの道のりはなかなか長く、私たちは積翠寺からおよそ3時間かかりました。道中にも様々な観音像や道標があり、その内のいくつかは少し欠けていたり苔に覆われていたりなど、それらだけでとても長い歴史を体感することができました。こちらは人々が住んでいた集落と“山”の境目として建てられたお堂で、当時の人たちが山を特別なものと認識していたことが伝わってきます。
山の中に入ると至る所にさざれ石を見ることができ、この辺りに火砕流が流れてきたいたことが予想されます。下の写真がさざれ石の一例です!
また、前日は雨で道に水たまりがあったりぬかるんでいたりしたため、歩くのに注意が必要でした。僕はここで片足を水の中に全部入れてしまい靴がびしょびしょになってしまいました。(笑)
さらに登っていくと新しい道標があり、ここまで来ると深草観音のかなり近くまで来たということになります。
深草観音までたどり着き、様々な観音像を見ることができました。ここ深草観音には本当にたくさんの観音像があり、そのうちのいくつかを説明します
まず1つ目は「馬頭観音」。もともと畜生道に迷う人々の救済、家畜の健康祈願や旅の安全を願う人々に信仰されていました。しかし江戸時代に入ってからは馬や動物を供養する仏様としての信仰をされるようになります。日本人と馬は関係が深く、昔から荷物を運んだり人間の生活を大きく助けたりしてきました。生活のパートナーを供養しようという気持ちから、新しい信仰の形が生まれたということは非常に興味深い事例だと思いませんか?
2つ目は「如意輪観音」。この仏像は下の写真の左から二つ目の像です。取っている姿勢にも意味があり座りながら片肘をつき、どうすれば衆生を救うことができるのか悩んでいる姿だと言われています。
3つ目は「千手観音」。観音様の中では比較的聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。千手観音様はありとあらゆる方法で一切衆生を救おうとしています。それを表しているのが背後の無数の手だとされています。
これらの観音像はそのほとんどに文政と刻まれており、1818年から1831年までの作だと推測できます。今から約200年前の作品とは思えないくらい、しっかりと形が残っており驚きました!
切り立った崖の上の方にはお坊さんが修行をするための岩窟が存在し、その中に入ることができました!去年までは梯子を使って行けたそうですが、今ははしごの固定が途中で外れており、危険なのでテープで登れないように封鎖してありました。こちらのはしごは昭和三年のものであるため、それまでは修行僧の方は簡易の石段を登って行って岩窟の中に入っていったと考えられます。私たちもそのルートで行くことにしました。
岩窟の入口は、現代人の我々が入るには少し狭く感じる場所ですが、江戸時代の男性の平均身長が158cm程度だったため、当時は十分な大きさだったのかもしれません。
岩窟の中の様子と景色です。結構高い場所にあります!中には机や鐘などのお経を読むために必要なものと、観光客向けの来訪を記録するノートだけがありました。
【蚕糸石室】
かつて養蚕が盛んだった時代に、崖水からくる気化熱による冷気を生かして自然の冷蔵庫という形で蚕の卵を保存するのに重宝された石室。
私たちにはなじみが薄いかもしれない養蚕業ですが、山梨県では古くから養蚕が盛んでした。全国的に山梨県での離縁状の発見数は多く、日本最古の離縁状が山梨で発見されているのは、甲斐国で女性たちが養蚕により独り立ちできる程の経済力を持っていたためではないかとまで言われる程です。自身も父親から、父が子どもの頃はまだ桑畑が山梨県内に多くあったと教わったことがあります。
先も述べたように前日が雨だったため、『深草観音』一帯は特に美しいものでした。私自身仏教徒ではないですが、思わず神秘的なものを感じました。また、森の中では猿の鳴き声や鹿の鳴き声、鳥の鳴き声が絶えず聞こえてきて、昔は動物が神の使いとされていたということを納得できる程の雰囲気を感じることができました!
【最後に】
今回のフィールドワークで私たちは本当に多くのことを学ぶことができたと思います。私たちの大学の授業構成はこれまで座学がメインだったため、今回で「百聞は一見に如かず」という言葉の意味を噛みしめることができました!
私の考察として、昔の人たちの生活は、作物がうまく実らなければ生活が非常に苦しくなる状況だったのではないかと思います。その中で、人々は神秘的な場所である深草観音を信仰の拠り所とし、先祖への感謝や供養、観音様による救済や現世での生活の安寧を願ったのではないかと考えました。私は山梨市に住んでいるのですが、家の裏の方にあるちょっとした山を散策していたら小さなお社を発見したことがあります。その社にどのような神様が祀られていたのかはわかりませんが、定期的に管理がされていたのか葉っぱに埋もれているようなことはありません。そのこととも重ね合わせ、古くからある“信仰”を学ぶことで、人々が積み重ねてきた歴史に触れることができるのではないかとも考えました。今回のフィールドワークは本当に有意義なものとなりました。
登山は身体だけでなく心も癒され、自然と歴史を感じながら、自分自身と向き合う貴重な時間を過ごすことができました!
みなさんも是非、『深草観音』へ足を運んでみてください!