Eos5D写真三昧 格安の海外旅行記と国内旅行のすすめ

海外旅行の情報を旅行記として綴った記録。EOS5Dとiphoneで撮った写真をあげております。

川中島合戦場

2020年04月01日 21時18分28秒 | 長野旅行記
川中島といえば第4次川中島の合戦である。

赤いピンが川中島古戦場。北の黄色い星が善光寺。西の黄色い星が茶臼山(信玄の本陣)南に黄色い星が2つあるが、右側が海津城(現松代城)  左側が妻女山(謙信の本陣)


ジオラマを見てもこの通り。真ん中を南から北に流れるのは千曲川であり、西から東に善光寺付近を流れているのは犀川である。
地図や写真をみると、海津城と妻女山が近いこと。関ヶ原古戦場にも行ったことがあるが、実際この目で見たらあそこも結構狭かった。
海津城から妻女山までは、自宅からちょっと歩いてスーパー行ってくる、、、というような距離である。
  この戦いは典型的な後詰決戦である。海津城を上杉軍が攻めようとする。落城したらまずいので武田の本軍が山梨から出てくる。決戦。これである。
  長篠の戦いも、長篠城を狙って出陣した武田を織田徳川連合軍が援軍(後詰)で駆けつけ起こった戦であり、戦いは大抵が後詰決戦である。


当時の国境線は犀川。謙信は海津城を攻めるためとはいえ、かなり武田領奥深くのど真ん中の妻女山に陣取った。ヘタをすると包囲されそうな位置でもある。この陣取りは、後世のさまざまな歴史家たちから「頭おかしい」とか「天才のなせるわざか?」などという称賛を受けている。実際に海津城から妻女山を肉眼で見ても、たしかに謙信は頭がおかしい。


いわゆるキツツキ戦法に失敗した武田軍は、夜明けとともに霧の中から奇襲してくる上杉軍に狼狽し、いわゆる古戦場であるここで、信玄は謙信の太刀を軍配で受けたと言われている。


諏訪大社2

2020年04月01日 02時57分00秒 | 長野旅行記
神社のことを調べると、どうも奈良時代の格式、平安時代の格式、そして明治時代の格式で結構違ってきている。明治になると神宮や大社が乱発し、その価値が落ちる傾向にあり、戦後になるとその価値の既存が著しい。しかしながら平安時代においては、神宮や大社などは現代に比べれば希少であり価値が高い。
では現存する神社が、中世から連綿と続く由緒正しい神社かどうかのお墨付きは何を見れば信用できるのか?ということだが、そこで出てくるのが式内社、式外社というものであるようだ。この式とは平安時代の延喜式からきており、式内社と書かれた神社は、学者のお墨付きがついてると思ってもよいだろう。少なくど10世紀から連綿と続いている文化財であるとみてよい。
さて、次に官幣大社についてだがこれは何かというと、今で言うなら中央政府の官、すなわち当時の神祇官から神への供え物、いわば神の降りる依り代が支給されて、神社としての機能を保証されたものらしい。一方で、国幣大社なるものもあり、これは中央政府ではなく、地方を治めていた豪族ら国造から依り代を支給された神社であるようだ。大社、中社、小社という格付けもある。そして官幣といわれるものはほぼ畿内にしかなく、国幣は畿外である。
  ようするに誰の後ろ盾による神社なのか。宮なのか。そういうことらしい。

さて、諏訪大社である。少なくともこの神社は、官幣大社であり、式内社であるので、延喜式である10世紀あたりの平安時代から今日まで続く古い神社であり、どうじに中央政府の後ろ盾による神社である。

ランキングでいえば、伊勢神宮、出雲大社、香取神宮、鹿島神宮にはおよばないが、それに次ぐ名門とはいえるだろう。
つまりすごい。

ただ神社というのは、カミを信仰する古代日本人の中では、結構ののちの時代に作られたものらしく、原始的なものだと建物はなくて、祭りの時に磐座(いわくら)といわれる石や、神籬(ひもろぎ)といわれる結界を依り代として神に舞い降りてきてもらうものだったようだ。
現在地鎮祭で使われる神籬はこれではなく榊の常緑樹に紙垂(しで)をあしらった御幣のようなものを指すが、古代の神籬は結界だったようである。

古代の神籬は、現在の拝殿と本殿を囲う玉垣(たまがき)瑞垣(みずがき)や垣の内側に植えられている神木などの囲われた結界がそれである。



神籬  ひもろぎ



地鎮祭による神籬



玉垣  瑞垣



磐座   いわくら