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私はひとり息子を亡くすという経験をしています。
当時は辛くて辛くてたまらなかったのですが、
今はそれも意味ある体験となっています。
こんな辛さの中にも、子ども時代の体験がベースにあるのです。
ですので、親や周りの大人が意識的になっていることが大切なのです。
人間やっている限り、完璧はないけれど。
「息子の障害も、制限された生活も、
息子がいた時はそれなりに
受け入れて幸せを感じて生きて来たけれど、
息子の死だけはなかなか心から受け入れられず、ずっと抵抗して来た。
去年散骨するまでは本当には受け入れられていなかったことに、
散骨してからはっきりと気づいた。
それからは感じる世界、見える世界が明らかに変わった。
息子の死を通して浮かび上がったこと
この世界は怖くて不信に満ちている、という子どもの頃に感じていた誤解。
私の深いところにずっとあった。
息子の死がなければ浮かび上がって来なかったこと。
生も死も、苦しみも喜びも、全てがある世界を受け入れたら、
不思議なことに、怖さがしぼんだ。
息子は人生の先生だったと、改めて感じる。
人生にやって来ることを受け入れていた。
大変さはあっても、息子といる時間は幸せだった。
そんな息子を失うことが怖くてたまらなかった。
失ってみて、それまで半分しか知らなかった世界のあとの半分を知ることとなり、
私の世界がガラリと変わった。
本当は失うものは何もないことを知った。
それでも息子の死を受け入れることにずいぶんと時間がかかった。可愛い過ぎて。
何よりも難問でした。
「私には何も残っていない。全てを失った」というイメージに捉われて、なかなか抜け出せなかった。
結局はこれも子どもの頃に誤解したことが浮かび上がっただけなのですが。
子どもの頃のイメージが人生を作っていく。
今は幸せです。
いつの間にか、私の中には沢山のものがある。
私はひとり息子を亡くすという経験をしています。
当時は辛くて辛くてたまらなかったのですが、
今はそれも意味ある体験となっています。
こんな辛さの中にも、子ども時代の体験がベースにあるのです。
ですので、親や周りの大人が意識的になっていることが大切なのです。
人間やっている限り、完璧はないけれど。
「息子の障害も、制限された生活も、
息子がいた時はそれなりに
受け入れて幸せを感じて生きて来たけれど、
息子の死だけはなかなか心から受け入れられず、ずっと抵抗して来た。
去年散骨するまでは本当には受け入れられていなかったことに、
散骨してからはっきりと気づいた。
それからは感じる世界、見える世界が明らかに変わった。
息子の死を通して浮かび上がったこと
この世界は怖くて不信に満ちている、という子どもの頃に感じていた誤解。
私の深いところにずっとあった。
息子の死がなければ浮かび上がって来なかったこと。
生も死も、苦しみも喜びも、全てがある世界を受け入れたら、
不思議なことに、怖さがしぼんだ。
息子は人生の先生だったと、改めて感じる。
人生にやって来ることを受け入れていた。
大変さはあっても、息子といる時間は幸せだった。
そんな息子を失うことが怖くてたまらなかった。
失ってみて、それまで半分しか知らなかった世界のあとの半分を知ることとなり、
私の世界がガラリと変わった。
本当は失うものは何もないことを知った。
それでも息子の死を受け入れることにずいぶんと時間がかかった。可愛い過ぎて。
何よりも難問でした。
「私には何も残っていない。全てを失った」というイメージに捉われて、なかなか抜け出せなかった。
結局はこれも子どもの頃に誤解したことが浮かび上がっただけなのですが。
子どもの頃のイメージが人生を作っていく。
今は幸せです。
いつの間にか、私の中には沢山のものがある。
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