黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

台地を行くVol.8大森貝塚

2025-02-18 13:01:06 | 地理

小学校で大森貝塚のことを習ったときは、貝と言うのだから現在の東京湾の海沿いにあるのだろう、と思っていた。半世紀経って、現在の大森駅の近くにあることを知った。なるほど、先般、道潅山遺跡が西日暮里駅近くの台地の上にあることを知り、大昔は、現在の京浜東北線のあたりが海岸線で、海に挑む崖の上で人々が暮らしていたからそこが遺跡になるのだな、と(遅かれながら)お勉強したところである。であるならば、大森駅のあたりも昔は海岸線で、そこに接する台地の縁に集落があり、当時のゴミ捨て場が貝塚として現代に蘇ったことにガッテンである。

だが、疑問がある。貝塚は、台地の上と下のどっちにあったのだろう?集落は台地上にあったからゴミ捨て場も「上」?それとも、台地の上からぽいぽい下に捨てたから「下」?それから、モース博士は1877年に東海道線に乗ってて貝塚を発見したというのだが、車窓から貝殻が見えるものだろうか?いったいどこにどういう風に存在して博士の目に触れたのだろうか?このあたりの疑問を解消するために是非現地を見てみたいが、痛風で歩けなかったら延び延びになっていた。ようやく痛みが治まってきた。大森貝塚は駅の近くだから歩き復活第1弾にちょうどいい。ということで行ってきた。

「現場」は現在「大森貝塚遺跡庭園」として整備されている。ほとんどは再現模型だが、一箇所だけ、地下牢の入口みたいなところがあり、

そこを覗くと、実際の「貝層」が剥き出しになっていた。

そうか、こんな風に断層の中に貝の層があったのだな。おそらく、縄文人がポイ捨てをした貝が層になっていて、で、東海道線を通すために崖を崩していたら断層が現れて、その中の貝の層が列車から見えたのだな。私は、「貝」と聞いて、せいぜいシジミくらいを想像していたのだが(ウチでは貝は味噌汁にしじみを入れるくらいなので)、それよりずいぶん大きい貝ばかりである(5㎝以上ある)。縄文人の方が私よりもグルメであった。こんだけ大きいのが積み重なって層になれば、そりゃ遠くからも見えるよな、とガッテンした。また、大森貝塚遺跡庭園は台地の上にあり、線路(昔の海面)は随分下にあるから、

貝塚は台地の下ではなく上にあったことにもガッテン。やはり、ゴミ捨て場は自分ちの周りに作るものであり、高い処からポイ捨てをしたわけではないようである。縄文人も、なかなかに環境意識が高かったようである(?)。

因みに、この庭園は品川区にあるのだが、もっと大森駅側(大田区)に「大森貝墟の碑」がある。

こちらは、池上通りから逸れて線路脇に降りきったところにある。

もし、ここが発見の場だとすると「台地の下にあった説」が勢いを盛り返しかねないところだが、いっとき不明とされてきた発見の場が後の研究により庭園のあたりと判明したそうだから(改訂新版世界大百科事典)、「台地の上」でよいようである。なお庭園にも石碑があり、二つの石碑の本家争いは、同時に大田区と品川区の本家争いをも意味する。ここら辺に写真を撮りに来る人は二つの石碑を撮って並べて対立の構図にもっていくのが王道のようだが、私は庭園の石碑を撮り忘れた。興味が専ら土地の「高低差」にあるもので……因みに、「大田区」は、昔の「大森区」と「蒲田区」が合体してできた区なので、名称も二つを合体させたものだそうだ。

私にとって貝と言えば味噌汁に入れるシジミくらい、と書いたが、それは今でも同様である。先日も半額になっていたシジミを購入して味噌汁に入れたから、食後に貝殻が残った。

現在では、食品ゴミをポイ捨てすることは御法度だからコレが貝塚になって後世の人の研究対象になることはない。そう言えば、子供の頃、母から「煮て口を開けない貝は死んでる貝」と聞かされたが、最近の貝は活きがいいのだろうか。写真中、口を閉じている貝は一個だけである(外周円上にある)。


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