兄が50年代から70年代にかけての実力者、ドクター・ビル・ミラーで兄弟タッグで売り出し台頭。ダン・ミラーも日本プロレスの「ワールド・リーグ戦」やマスクマンのザ・レモラで来日。このポートレートは1973年に全日本プロレスに来日した際、ミラー自身から貰った物だ。渋いファイターのミラーだったが、日本では大きくブレイクすることは無かった。
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ここに紹介するのは、私がコレクションしている海外雑誌の中でも最古のもので、「The ARENA」という題名だ。イラストでストラングラー・ルイスが表紙(左)になっているのは何と、1930年の11月号だ。当時はプロレスとボクシングが同じ雑誌に載っている。もう一冊は1932年1月号でヘンリ・デグラン?が表紙だ。誌面では様々なサブミッションを解説したページもある。今から70年以上前から専門誌があったが、 . . . 本文を読む
このマスクは1950年代に活躍した”暗殺医師”メディコ・アセシノのものだ。アセシノは大型ルチャドールで、米国テキサスでもベルトを獲った実力者。若くして亡くなったが、これは私が90年12月に初めてメキシコ旅行した際、どこかのマスク屋から入手した。ボロボロだが作りはしっかりしており、骨とう品として現在までコレクションしている。
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風香祭参戦のためダーク・エンジェルが、メキシコよりJAL11便で来日した。飛行機は定刻より数分遅れて着いたが、本人が出発ロビーに姿を現したのは何と到着から50分後のことだった。「まさか、乗っていないのでは・・・?」なんて不安もあったが、ようやく現れたダーク・エンジェルことサラは「荷物が中々出てこなかった…」と言っていた。昨日、下田からメールが来て「サラは日本でも楽しみながら成功して欲しい」とテイ . . . 本文を読む
マイク・グラハム…元NWA会長でフロリダ・マット界のドンであるエディ・グラハムの息子。ケビン・サリバンとフロリダ・タッグ王座を獲得。全日本プロレスに初来日し、新日本プロレスに来日した際にはNWAインタージュニア王座を藤波に手放した。
レイモンド・ルジョー…カナダ・マット界を牛耳ったジャック・ルジョーの息子。75年8月に新日本プロレスに来日。父ジャックとの親子タッグで、何度もメインに登場した。
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1979年3月4日生まれ、カナダ・マニトバ州ウイニペグ出身。160cm、58kg。(得意技)プランチャ・スイシーダ、スーパー・ラナ
本名サラ・ストック。キックボクシングの経験もあり、02年に地元でデビュー後、ROH、OVWや全米各地、カナダを転戦し、メキシコの北部都市モンテレーに定住。女子団体LLF(ルチャ・リブレ・フィメール)王座を獲得したが、05年夏にCMLLが女子部を再開後にアレナ・メヒコ . . . 本文を読む
1983年11月4日生まれ、米国オハイオ州コロンバス出身。177cm、77kg。(得意技)フィッシャーマン・バスター
小学校5年生で5フィート11インチ(177センチ)もあり、高校生まで学校で一番、身長が高い少女だった。この頃から熱心なプロレス・マニアで、同時に格闘技にも芽生えキックボクシングなどのトレーニングも始めた。日本のプロレスが好きで80年代から00年代にかけてのビデオをこよなく鑑賞した . . . 本文を読む
マスカラスが日本プロレスに初来日したのは、1971年2月だからもう38年も昔のことだ。その年の8月に再来日し、翌72年5月と8月と続いた。2年間で4回も来日したのだ。当時は2団体時代だから、1人の選手が来日するといっても2~3年に1度の割り合い。例外はNWA世界王者とか位だった。
それだけマスカラス人気は、例外を作ったのだろう。シリーズのエース外国人というより、別格の存在として日本プロレスも気 . . . 本文を読む
"ゴンゴン”という愛称が本当にピッタリだった小倉由美は、クラッシュの近衛兵的な存在として、その突貫ファイトは清々しかった。弾力性のある体つきは、まさにゴンゴン…若手時代はアグレッシブで、いわゆる元気な選手だった。クラッシュ・ギャルズの付け人として、よく行動を共にしたが、千種の突発的な怒りによく耐えていたし、何かといえば、小倉が殴られた。要するにそれだけ、可愛がっていたのだが、若手にとっては辛 . . . 本文を読む
ご存知、帝王バーン・ガニアに次き長期間に渡って、AWA世界王座を保持した実力者。「相手がジルバで踊るならジルバで、ワルツを踊るならワルツで」という名台詞を残し、わかりやすく言えばリック・フレアーのような守りの試合巧者だった。金髪をなびかせたダーティー・ファイト、得意技は足4の字固めとフレアーの先人的な存在。ただフレアー以上にプロの妙技を見せつけ、負けそうで負けないプロレスの達人であった。ジャンボ . . . 本文を読む
このポートレートはラーズ・アンダーソンが、国際プロレスの「第5回IWAワールド・シリーズ」に参戦した際に貰ったものだ。正確には持参したTシャツを購入したら、ポートレートもくれたのだ。今では当たり前のように売られているいるTシャツも、この昭和40年代後半にはデストロイヤーとアウトローズ位なもの。たから
Tシャツも貴重だし、ましてポートレートなどは非売品だったのだ。
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2・15新日本プロレスの両国大会は、試合内容、観客動員とその底力を存分に見せつけた興行であった。この大会にはアメリカからカート・アングル、メキシコからミスティコという世界規模のスター選手が参戦。かつてのストロング・スタイルではなく、21世紀の新日本スタイルが絶妙に創られていたのだ。今のファン気質、特に新日本を観戦しているファンはコッテリした人間ドラマや、過度なヒッティングを求めてはいない。もっと . . . 本文を読む
マスクマン王国のルチャ・リブレだが、女子の場合は逆に貴重価値がある。ここに紹介したチキータ・アステカ(中)、ペケーニャ・アステカ(左)は日本専用のマスクウーマンとして私が作ったものだ。チャパリータASARIのライバルとして登場した、この正体はエステル(チキータ)とアルダ(ペケーニャ)のモレノ姉妹であった。
もう1人のプリンセサ・スヘイ(右)はアルシオンに招聘したことがあったが、今や最も充実した . . . 本文を読む
今日は亡き母親の三回忌法要が行われたため、午前中から実家のある千葉に行って来た。私は二人の妹と、弟が1人いるがこうやって顔を合わせるのは1年ぶりだ。例え兄妹でも、冠婚葬祭の時位しか会わなくなっている。母親が生前中は千葉の実家に帰ることもあったが、今ではそれも無くなった。法要の後は墓前に線香を上げた。そして会食…。
「ねえ、ところでお兄ちゃんは今、何の仕事をやっているの?」と下の妹に聞かれた。 . . . 本文を読む
1977年10月18日生まれ、ミチョアカン州サモラ出身。165cm、58kg。(得意技)タパティア
本名ビビアナ・オチョア・バラーダ。10代前半からアレナ・メヒコのジムで練習生として通っていたが、私はその時から顔見知り。軽くマット運動程度しか見たことがなかったが、そのビビアナがプロデビューしたのはある意味必然だったのかもしれない。メキシコ遠征した日本選手とも親しくなったが、特に下田美馬、吉田万里 . . . 本文を読む