エマニュエル・レヴィナス著、合田正人訳、みすず書房刊。
いつもどおり、魅力的だけれども難しい文章だった。
自我はその唯一性ゆえに異なるのであって、その差異ゆえに唯一者であるのではない。
「主体の外へ」にあったこの一文は、今朝から考えていたことを一歩押し進めてくれた。
私の周囲には、たくさんの「表現者」がいる。
さまざまなジャンルの「作家」たちは、それぞれの光景をもつ情緒豊かな人たちなので、
私は彼らと話すことがとても楽しい。
しかし、会話には細心の注意が必要だ。
時に彼らは、他人からの何気ない一言に深く傷つく。
今日聞いた話は、ある人から、自分の作品が別の作家の作品に似ていると言われたことに、
深く傷ついたということだった。
そもそも表現において、私はまったくの独自性などというものがあるとは思っていない。
なぜなら、脳が成長するにあたって繰り返して来たのは「模倣」なのだから、
独自性なんてものは、構造上そうそう有りようがないと思っているからだ。
言葉、表情がまず模倣だし、その延長や代替物である他の表現方法も
基本的には他に倣ってきたもののはずだ。
それに、自分が何かを認識するとき、必ず既に出会ったことのある「なにか」と比較したり、
分類しているものだし、他人からも私という人間はそのように観られていると思っている。
また、自分の心を突き詰めて観ていったら「喜怒哀楽」を感じるという意味においては、
例えば、好きな人と一緒にいたい、美味しいものをゆったり食べたら幸せだ、など、
世界中のあらゆる人と根本的なところは近い訳だから、「個性的であること」は、
私にとって褒め言葉でもなんでもない。
私は自分が楽しいと思うように、他人にも何かを楽しんでほしいし、
悲しいと思うことがあったら、自分が何とか乗り越えたように、他の誰かも自分なりに乗り越えてほしいと思う。
極論をいうと、私だけの喜びや、私だけの悲しみなんてものはない。
その乗り越え方が誰かと似ていたって、まったく気にならない。
そりゃ、これだけ人間がいるんだから、当然似ている人がいて当然だろうと思う。
積極的に誰かを模倣しようとは思わないけど、知らないうちに誰かの影響を受けていても
いっこうに気にならないというのが、私という人間の個性に対する私自身の向き合い方だ。
それよりももっと、本当にたまたまの偶然によって、
私がいま、この皮膚に包まれた、純粋に肉体的な痛みを感じる一つの生命体として、
生命の流れの中で、まるで水の飛沫のように一瞬のかたちを得たことの方が、
不思議であるし、希有なことであると思う。
哲学関係の本を読んでいると、ほとんどの部分は、先輩が考えたことを理解することに費やされる。
しかし、その流れを汲みつつ、ある社会的&個人的な出会いを経て、
ある一点において、その考察が進められることがある。
これが「価値」だと思うから、99%が先輩の言葉の焼き直しでもしょうがない。
そこで考え方が誰それと似ている、と言われても、それは当然のことだ。
年齢を重ねて、読んだ本の数や観た映画の本数、出会った絵画の数が増えるに伴い、
何かを表現したいと思った時に、一側面が誰かの何かに似てしまうこと、それを自覚してしまうこと、
それによって筆がとまってしまうこと、そして自分の表現には独自性がないと感じることは、
いま、これだけ情報に触れることができる時代において、当然のことなのではないだろうか。
そして、こんなことは何遍も考えたことのある作家本人が、
他人の作品と比べられることに対して、時に強烈な嫌悪感をもつというのは、どういうことなのだろう。
おそらく、作家という人種は、あまりにも孤独な表現者なのだろうと思う。
たとえこちらにとっては最上級の賛辞であったとしても、
「誰それさんの名作と似た雰囲気があって素敵です」など、
作家本人に言ってはいけないのだなあ。
いつもどおり、魅力的だけれども難しい文章だった。
自我はその唯一性ゆえに異なるのであって、その差異ゆえに唯一者であるのではない。
「主体の外へ」にあったこの一文は、今朝から考えていたことを一歩押し進めてくれた。
私の周囲には、たくさんの「表現者」がいる。
さまざまなジャンルの「作家」たちは、それぞれの光景をもつ情緒豊かな人たちなので、
私は彼らと話すことがとても楽しい。
しかし、会話には細心の注意が必要だ。
時に彼らは、他人からの何気ない一言に深く傷つく。
今日聞いた話は、ある人から、自分の作品が別の作家の作品に似ていると言われたことに、
深く傷ついたということだった。
そもそも表現において、私はまったくの独自性などというものがあるとは思っていない。
なぜなら、脳が成長するにあたって繰り返して来たのは「模倣」なのだから、
独自性なんてものは、構造上そうそう有りようがないと思っているからだ。
言葉、表情がまず模倣だし、その延長や代替物である他の表現方法も
基本的には他に倣ってきたもののはずだ。
それに、自分が何かを認識するとき、必ず既に出会ったことのある「なにか」と比較したり、
分類しているものだし、他人からも私という人間はそのように観られていると思っている。
また、自分の心を突き詰めて観ていったら「喜怒哀楽」を感じるという意味においては、
例えば、好きな人と一緒にいたい、美味しいものをゆったり食べたら幸せだ、など、
世界中のあらゆる人と根本的なところは近い訳だから、「個性的であること」は、
私にとって褒め言葉でもなんでもない。
私は自分が楽しいと思うように、他人にも何かを楽しんでほしいし、
悲しいと思うことがあったら、自分が何とか乗り越えたように、他の誰かも自分なりに乗り越えてほしいと思う。
極論をいうと、私だけの喜びや、私だけの悲しみなんてものはない。
その乗り越え方が誰かと似ていたって、まったく気にならない。
そりゃ、これだけ人間がいるんだから、当然似ている人がいて当然だろうと思う。
積極的に誰かを模倣しようとは思わないけど、知らないうちに誰かの影響を受けていても
いっこうに気にならないというのが、私という人間の個性に対する私自身の向き合い方だ。
それよりももっと、本当にたまたまの偶然によって、
私がいま、この皮膚に包まれた、純粋に肉体的な痛みを感じる一つの生命体として、
生命の流れの中で、まるで水の飛沫のように一瞬のかたちを得たことの方が、
不思議であるし、希有なことであると思う。
哲学関係の本を読んでいると、ほとんどの部分は、先輩が考えたことを理解することに費やされる。
しかし、その流れを汲みつつ、ある社会的&個人的な出会いを経て、
ある一点において、その考察が進められることがある。
これが「価値」だと思うから、99%が先輩の言葉の焼き直しでもしょうがない。
そこで考え方が誰それと似ている、と言われても、それは当然のことだ。
年齢を重ねて、読んだ本の数や観た映画の本数、出会った絵画の数が増えるに伴い、
何かを表現したいと思った時に、一側面が誰かの何かに似てしまうこと、それを自覚してしまうこと、
それによって筆がとまってしまうこと、そして自分の表現には独自性がないと感じることは、
いま、これだけ情報に触れることができる時代において、当然のことなのではないだろうか。
そして、こんなことは何遍も考えたことのある作家本人が、
他人の作品と比べられることに対して、時に強烈な嫌悪感をもつというのは、どういうことなのだろう。
おそらく、作家という人種は、あまりにも孤独な表現者なのだろうと思う。
たとえこちらにとっては最上級の賛辞であったとしても、
「誰それさんの名作と似た雰囲気があって素敵です」など、
作家本人に言ってはいけないのだなあ。