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【小倉百人一首】75:藤原基俊

2014年08月10日 03時48分26秒 | 小倉百人一首
藤原基俊

契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり

道長のひ孫にあたる。
源俊頼のところでも書いたとおり、堀河天皇期における歌壇の中心人物の一人で、俊頼が革新的な歌風を好んだのに対し、基俊は伝統的な歌風を重んじた。
ちなみに父の俊家は正二位・右大臣まで登ったが、基俊は従五位上でとまっている。

この歌のエピソードは有名で、基俊が興福寺(藤原氏の氏寺)で行われる維摩会という法会にて、名誉ある講師の任を息子の光覚にさせてもらうよう藤原忠通に頼んだ。
それに対して忠通は清水寺観音の託宣歌で応えた。

 なほたのめ しめぢが原の さしも草 わが世の中に あらむかぎりは

これは「おれに任せておけ」という意味になり、期待した基俊だが、この約束は反故にされてしまった。その無念さを詠ったのがこの歌である。

【小倉百人一首】74:源俊頼朝臣

2014年08月10日 03時34分49秒 | 小倉百人一首
源俊頼朝臣

憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを

源経信の三男で宇多源氏出身。
堀河天皇に仕え、当時の歌壇の中心的人物であった。同時代には藤原基俊という人もいて、両者は歌風の違いなどからよく比較の対象となった。

俊頼は白河法皇の勅命により5番目の勅撰和歌集である『金葉集』を編纂している。が、この『金葉集』は白河に二度もダメだしをされ(巻頭歌の歌人が気に入らなかったから)、三度目でようやく認めてもらった。ただし二度目のだしたものはすでに流布していた。
しかも、ようやく世に出たと思ったら世間の評判は悪く、俊頼にしてみれば踏んだり蹴ったりの結果だった。

【小倉百人一首】73:前中納言匡房

2014年08月10日 01時06分44秒 | 小倉百人一首
前中納言匡房

高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ

本名は大江匡房。この時代を代表する碩学。赤染衛門のひ孫にあたる。
この歌は当時の関白・藤原師通(頼通の孫)の邸宅で行われた酒宴の席で詠んだ歌。ちなみに外山とは地名ではなく人里に近い山のことをさす。

先祖の大江千里のところでも書いたが大江氏は紀伝道を家学とする学者の家系。そのため匡房も学問によって立身出世をはかるが、その上昇志向は並ではなく、後三条天皇期から出世の階段を登り始め、堀河天皇期にはついに公卿になった。

後三条が東宮(皇太子)になったのは父帝・後朱雀天皇が皇子の後冷泉(後三条の兄)に譲位する際で、後冷泉が即位すると同時に後三条が東宮となった。ただしこの決定には当時関白だった藤原頼通は非常に不服であった。頼通としては後冷泉に入内させた娘(寛子)が男子を産めば、後三条の東宮を廃位して自身の孫を後冷泉の次代の天皇にしただろう。が、結局後冷泉と寛子の間には男子は産まれなかった。
とはいえ、東宮時代は頼通から陰に陽に圧力をかけられたが、これに負けることなくついに1068年に登極。なんと23年もの長きにわたり東宮であった。
即位後、藤原摂関家の影響力を弱めるため、藤原氏内部でも反摂関家勢力の家や村上源氏などを積極的に登用。匡房もそのうちの一人。
当時、天皇家を養うべき租税があまりに少なすぎたため、違法な荘園の取り締まりを敢行し、摂関家ですらこれに従わせた。
これは平安期の大きなターニングポイントというべきで、これまで摂関家を支えてきた受領層、つまり中下級官人たちは摂関家よりも天皇家の方になびくようになり、これが後に白河上皇が巨大な権力を持つ下地になる。
また、自身が不遇だった東宮時代に嫌がらせをしてきた源隆国(醍醐源氏・正二位権大納言)の息子たちも能力があるとみて登用するなど、開明的でもあった。これには匡房による教育も無関係ではないだろう。ちなみに匡房は後三条の学識について当代一と太鼓判を押している。

匡房に話を戻すと、学者らしく著作も多いのだが、その中でも変り種なものに日本初の兵法書である『闘戦経』というものがある。残念ながら匡房は著者の候補のうちの一人ということで、著者かどうかはっきりしないが、大江家は後にこの『闘戦経』を使った兵法伝授も家学となって、なんと江戸時代まで続いている。
また、当時の源氏の棟梁である源義家に兵法を講義し、そのおかげで義家は後三年の役で勝利したという伝説まで作られている(年齢は義家の方が2歳年上)。
平安時代の公家はそもそも武事と無縁で兵法を講義するというのはぴんとこない。例えば匡房の生きた時代はまだ武士の世ではなく、日常的に戦乱があったわけではない。ただ、中国から『孫子』をはじめとする兵法書は伝わってきていたはずなので、それらを独自に研究してモノにしたという可能性はなくはないし、南北朝時代の北畠顕家のように武士より戦上手な公家も例外的にいることはいるので、歴史のロマンとしてはありかもしれない。

もうひとつ特記しておきたい著作に『続本朝往生伝』というものがある。この中で一条天皇期の人材の豊富さについて触れており、二十の分野別に86人の代表的な人物を書き記した。

ちなみに保元・平治の乱の渦中にいた時の関白・藤原忠通の名付け親でもある。

【小倉百人一首】72:祐子内親王家紀伊

2014年08月07日 00時41分50秒 | 小倉百人一首
祐子内親王家紀伊

音に聞く 高師の浜の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ

出自がはっきりしていなく、詳細は不明だが、この呼び名は後朱雀天皇と藤原頼通の養女の間に生まれた皇女である祐子内親王に仕えたから。ちなみに母娘二代にわたりこの貴人に使えており、母の呼称も祐子内親王家小弁。
ちなみに菅原孝標女も祐子内親王に仕えている。

祐子内親王は藤原師通を養子にしている。
ここで藤原氏の道長以降の歴史を簡単に書いておく。


     ┏後一条┏後冷泉
円融━一条┻後朱雀┻後三条━白河
    ||         ||━堀河
  ┏彰子      ┏━━賢子
道長╋頼通━師実━師通┻忠実
  ┃       ||
  ┗教通━信長━信子


道長が生前から位を譲ったのは頼通だが、頼通の娘は天皇に嫁ぐも男子に恵まれなかったため、天皇の外戚の立場を得ることはついにできなかった。
頼通の後に藤氏長者として摂関の座についたのがその弟の教通。ただし、道長の遺言で、教通の次の藤氏長者は師実になることは決められていた。この時代の天皇は後三条だが、この人は藤原氏を外戚にもたなかったため、反藤原氏の政治を目指し、荘園整理令を出して藤原氏などが違法に所持していた荘園の没収に成功した。おりしも頼通・教通の兄弟仲が悪かったのも後三条の政治改革を成功させる一因となっていた。
頼通は、次代の藤氏長者を甥の師実ではなく実の息子である信長に譲ろうとあがくが、姉であり遺言の生き証人であった待賢門院彰子が実行させた。
ちなみに師実は頼通の六男だが、兄たちは他家に養子にだされていたために嫡男となることができた。
さて、その師通は娘の賢子を白河に嫁がせて次代の天皇である堀河を生むことで天皇の外戚の地位を得ることができた。
実は後三条は、崩御の半年前に白河に譲位しており、その際白河の次代を白河の異母弟の実仁親王にするよう命じていた。が、実仁親王は早世したため、白河は皇太子を自分と賢子の間の子である堀河にすることができたのだ。これだとまるで天皇自らが藤原氏を外戚にしたがってるようにみえるが、実はその通りで白河は非常に賢子を寵愛しており、その賢子が28歳の若さで死去したときは非常に悲しんでいる。
後に身分を問わず多数の寵姫をかかえる白河だが、このときまでほぼ賢子に一途だったといってよい。
白河の院政期の話や、その後の皇室の混乱についてはまた別の機会に。

【小倉百人一首】71:大納言経信

2014年08月07日 00時32分05秒 | 小倉百人一首
大納言経信

夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆のまろやに 秋風ぞ吹く

本名は源経信。宇多源氏の出。母系をたどると、曽祖父は、藤原伊尹によって安和の変で失脚させられた源高明がおり、父方の方も摂関家の非主流とばかり婚姻を結んでいたためあまり振るわなかった。
多芸多才さは藤原公任にも比肩するといわれ、歌人としては「天下の判者」とまでいわれた。
ちなみに経信とは違う系統になるが、宇多源氏の中から武家として身を立てる家もでて、源義経の下で平家討伐に活躍した佐々木氏や京極氏、六角氏を輩出し、明治時代の軍人・乃木希典もこの血統を受け継いでいる。