藤原基俊
契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり
道長のひ孫にあたる。
源俊頼のところでも書いたとおり、堀河天皇期における歌壇の中心人物の一人で、俊頼が革新的な歌風を好んだのに対し、基俊は伝統的な歌風を重んじた。
ちなみに父の俊家は正二位・右大臣まで登ったが、基俊は従五位上でとまっている。
この歌のエピソードは有名で、基俊が興福寺(藤原氏の氏寺)で行われる維摩会という法会にて、名誉ある講師の任を息子の光覚にさせてもらうよう藤原忠通に頼んだ。
それに対して忠通は清水寺観音の託宣歌で応えた。
なほたのめ しめぢが原の さしも草 わが世の中に あらむかぎりは
これは「おれに任せておけ」という意味になり、期待した基俊だが、この約束は反故にされてしまった。その無念さを詠ったのがこの歌である。
契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり
道長のひ孫にあたる。
源俊頼のところでも書いたとおり、堀河天皇期における歌壇の中心人物の一人で、俊頼が革新的な歌風を好んだのに対し、基俊は伝統的な歌風を重んじた。
ちなみに父の俊家は正二位・右大臣まで登ったが、基俊は従五位上でとまっている。
この歌のエピソードは有名で、基俊が興福寺(藤原氏の氏寺)で行われる維摩会という法会にて、名誉ある講師の任を息子の光覚にさせてもらうよう藤原忠通に頼んだ。
それに対して忠通は清水寺観音の託宣歌で応えた。
なほたのめ しめぢが原の さしも草 わが世の中に あらむかぎりは
これは「おれに任せておけ」という意味になり、期待した基俊だが、この約束は反故にされてしまった。その無念さを詠ったのがこの歌である。