北千住にある施設を訪問しました。2回目ですが、前の時は施設に伺うのが精いっぱいでしたが、今回は千住宿と言われていた町の周辺を見てみました。
最初が長円寺です。魚籃観音や目やみ地蔵がありました。この間眼鏡のレンズを入れ替えたので、目やみ地蔵さん挨拶してきました
隣は氷川神社です。千住宿は塾もありこれを記念する碑が2つありました。正木櫟蔭事績碑(宝暦元年(1751)に千住宿で開塾した寺子屋「群雀堂」の二代目塾主、正木大助の生涯についての碑)と高正天満宮由緒碑(千住4丁目の名主高梨信平は地域の子供たちに読み書きなどを教えていた。縁故を頼って屋敷内に住むことになった正木昌房に、老齢の信平は子弟教育を託し、代々信奉していた菅原道真の像を譲った。正木氏はそれよりこの像を家神として祀り、子弟教育を家業とするようになった。ということで、二人の名前から高正天満宮となったものです。
千住宿の旧道にある高札場跡です。高札場は、江戸幕府の法令規則などを一般の人々に知らせるために各所に設置されました。千住では現在の千住仲町の旧道が旧区役所前通と交差する南西の角に設置されていました。
荒川北岸部にあった足立郡千住村は古くから水上交通の要所とされ、戦国時代には享徳の乱で下総国を追われて武蔵石浜城の拠点を移していた元の千葉氏嫡流(武蔵千葉氏)が支配していた。
小田原征伐後、徳川家康が江戸城に移され、文禄3年(1594年)に千住大橋が架けられると、急速に発展し、慶長2年(1597年)には人馬継立の地に指定されて千住町とされた。その後、寛永2年(1625年)に五街道の整備によって日光・奥州両街道の初宿に指定され、地子免除の代わりに伝馬役・歩行役を負担することとなった。その後も町域は広がり、万治元年(1658年)に隣接する掃部宿・河原町・橋戸町が、その2年後には荒川対岸の豊島郡側の小塚原町・中村町が加宿された。元の千住宿は1-5丁目に分けられて本宿、最初に追加された3町は新宿、対岸の2町は南宿(下宿)と呼ばれ、幕末期には家は2,400軒近く、人口も約1万人に達する江戸四宿最大の宿場町になった。ウイキペディアより
もう一つの氷川神社=千住本氷川神社徳治二年、千葉氏が千住三丁目牛田に、千葉山西光院と氷川神社を創建。千住町が宿場町として栄え始めた江戸初期、現在地に地主の土地奉納によって分社を建立した。明治四十三年荒川放水路構築の折、牛田氷川神社を合祀したとされています。
こちらは旧社殿です。
宿場町通りではいろいろと工夫されてものが飾ってありました。各街道からどれくらいで千住宿に到着するのか書いてあります。