月曜日は都営地下鉄の浅草橋駅の上にある施設を訪問しました。昼食を現役時代にお世話になった墨田区側のお店で摂り、訪問地に向かいました。これは吾妻地蔵尊です。吾妻橋の東詰のところに立っています。
この地蔵尊は、吾妻橋一丁目町会有志によって、震火災水難殉難者各霊供養、交通安全御守護のために建立され、また関東大震災や東京大空襲慰霊の卒塔婆も置かれています。地蔵尊は墨田区に勤めていたかなり前から注目していました。それは、明治20年代に生まれた田舎の祖父が、関東大震災の時に埼玉の田舎から動員されて隅田川の死体を処理したということを聞いていたからです。
爺さん子の私は夜な夜ないろいろな話を聞かせてもらいましたが、この話も印象的でした。隅田川に死体が川面を埋め尽くすほど浮いていて、それを引き上げて埋葬したということでした。死臭で大変だったが夢中で処理したと言っていたということを、この地蔵さんを見ると時々思い出していました。
今日は思い切って地蔵さんを撮ってみました。
その後も私が生まれる20日ほど前の1945年3月10日の東京大空襲で10万の命が奪われて時も、隅田川は同じようになったと、これは小学校5年生の時に、修学旅行で東京見学に来た時にバスガイドさんが話していたことを思い出します。
今は、浅草から東京スカイツリーを訪れる方が、この脇を通り過ぎていきます。これは下流の駒形橋から見た吾妻橋です。
これは駒形橋の西詰の麦とろの隣にある駒形堂です。元禄年間(1688~1704)までは、川に面して東向きであったが、現在は川を背にして、西向きに建っています。江戸のむかし、舟着場があり、渡しや船宿もあって、大変賑わったそうです。こんなのがありました。元禄5年(1692)浅草寺本尊が垂迹した霊地として、駒形堂の地を中心に南は諏訪町より、北は待乳山聖天にいたる10町余の川筋を魚介殺生禁断の地にした。このことを記念し、元禄6年3月浅草寺第4世宣在が願主となり建立したものである。
駒形堂はしばしば焼失しており、戒殺碑もいずれかの火災に際して倒壊しており、宝暦9年(1579)堂宇再建に伴い再び建てられたといわれる。現存の碑が当初のものであるかは詳かではないが、昭和2年(1927)5月に土中から八軒、同年修補再建されたものである。(東京都教育委員会)となっています。