大阪方面への出張でした。伊丹の施設を訪問しました。関西はJRと私鉄が並行して走っています。伊丹も阪急と競合していますが施設は阪急の駅前にあるので、仕事を終えて、JRにはバスで移動しました。JRの駅前に有岡城の跡があります。寄って見ました。伊丹市のHPでは「有岡城跡は,猪名川の西岸,伊丹段丘(だんきゅう)東縁部の一角に位置します。もとは伊丹氏が南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹城を築いていたところです。
天正2年(1574年)11月,織田信長の武将荒木村重は,伊丹氏にかわって伊丹城に入城しました。そして城の名を有岡城と改めて,大改造をおこないました。城だけでなく,侍町と町屋地区をも堀と土塁で囲んだ惣構(そうがまえ)の城としての価値を認められ,昭和54年12月に国の史跡に指定されました(昭和63年5月追加指定)。天正6年(1578年)秋,村重は織田信長に反旗をひるがえし,有岡城は包囲攻撃をうけました。10ヵ月の篭城の末,村重は嫡子村次(むらつぐ)のいる尼崎城に逃れ,まもなく主を失った城は侍町を焼き払われて陥落しました。天正8年,信長の家臣池田信輝の嫡子之助(ゆきすけ)が入城しますが,天正11年には美濃へ移り,伊丹は秀吉の直轄領となりました。その後大名は置かれず,いつしか城は放置され,江戸時代には地元の人々から「古城山」と呼ばれるまでになりました。しかし,焼け残った町屋地区を中心に伊丹の町は酒造りで発展し,15ヵ村一続きの“伊丹郷町”として繁栄しました。明治に入ると,川辺馬車鉄道や阪鶴(はんかく)鉄道(いずれも現在のJR宝塚線の前身)の建設工事により主郭部の東半分が失われました。
」と書かれています。狭い城址ですが井戸跡とか建物跡などが残っていました。
近くにお寺さんがあるというのでこちらも寄ってみました。本泉寺です。
本泉寺概要: 本泉寺の創建は永禄3年(1560)、日栖上人によって開かれたのが始まりとされます。当時は身延山久遠寺(山梨県身延町)の中本山で末寺4ヶ寺を擁する大寺だったと伝えられています。現在の本堂は元禄9年(1696)に再建されたもので2重入母屋、本瓦葺、平入、桁行19m、梁間12.5m、棟梁は昆陽村跡部太衛門尉宗令、現存する寺院建築の中では伊丹市最大の規模を誇ります。。。境内には楠公一族の墓域があり前三国守楠公、従四位上小楠公、楠正貞のものとされる墓が建立されています
江戸時代に入り、当寺第六世本樹院日秀聖人の代より堂宇の新改築が始められ元禄9年(1696)に本堂、祖師堂、妙見堂、番神堂、書院、客殿、庫裏、山門、鐘楼、庵、対面所等の七堂伽藍が完成しました。戦火や阪神淡路大震災を免れた本堂は、約300年の創建当時の姿を保っています。
とあるブログに書かれていますが、実際に木のつやなど、年期を感じさせるものでした。