脊柱管狭窄症の手術した三楽病院に診断書を受け取りに行きました。医療保険に申請するものですが6000円以上もかかりました。御茶ノ水駅の階段が大変なので、リハビリを兼ねて自転車で行ってみました。6㎞弱ということで、最後の登りさえ無事越えられればと思い決断しました。ガード沿いを登りましたが、荒川にかかる橋を登るよりは短い感じでした。帰りは聖橋を渡って神田明神側に行ってみました。
聖橋からみたところです。この写真で思い出すのは田舎の中学生のころ社会の教科書に都市交通発達のものとして載っていたことです。教科書を見る前から知っていたので印象がありました。
聖橋は放物線を描くアーチ橋で、形式は鉄筋コンクリートアーチ橋。関東大震災後の震災復興橋梁の1つで、昭和2年(1927年)に完成したものです。名前は東京府(現:東京都)が公募し、両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名されたそうです。
湯島聖堂と道路を挟んだところにある東京医科歯科大学にはこんなものがありました。調べてみたら「記念壁画レリーフ」ということで「中央はヴァチカン宮殿「署名の間」に描かれているラファエロ作「アテネの学堂」であり、対話による教育の原点を表しています。左は医学の父ヒポクラテス像とあるべき医師の心得とされる「ヒポクラテスの誓い」、右は1846年マサチューセッツ総合病院で行われた歯科医師モートンによる世界最初の全身麻酔公開実験を描いたロバート・ヒンクリーの作品です。
これらの壁画レリーフは、「教育」「研究」「診療」を題材としており、医歯学総合研究科・保健衛生学研究科の誕生により大学院重点化大学となった本学が、21世紀を迎えた今日、世界的拠点となるべく歩み始めたことを記念して作製されたものです。」と医科歯科大のHPに書かれていました。
神田明神は前に2度来ているので鳥居の写真のみでした。湯島の地名につられて湯島天神をと清水坂下まで行ってみましたが、またの上り坂であきらめて蔵前橋通りを帰途につきました。
途中で鳥越まつりで有名な鳥越神社寄ってみました。
鳥越祭りは鳥越神社の例大祭として毎年6月の中頃に行われます。大神輿の渡御と提灯行列で、千貫神輿といわれる御神輿の列の先頭には、猿田彦(天狗)や手古舞連、子供たちの持つ五色の旗が歩きます。夜祭りになると、提灯をつけた元祖提灯神輿は、高張り提灯に囲まれ宮入りします。その荘厳かつ幻想的な様は、人々の心をふるわせるそうです。祭りがあまりすくでないのでまだ、見たことがありません。
本殿
通りの名前がついている蔵前橋です。
手前に浅草御蔵跡の碑がありました。
橋の欄干には相撲の像がありました。両国に行く前はここ蔵前に国技館がありました。上流は厩橋と吾妻橋です。
橋を渡って墨田区側にくるとすぐに横網町公園、慰霊堂があります。
東京都のHPに「東京都慰霊堂は、大正12年(1923)9月1日に発生した、関東大震災による遭難者(約58,000人)の御遺骨を納めるための霊堂として、東京市内で最も被害の大きかった被服廠跡(現在東京都横網町公園)に昭和5年に建てられました。慰霊堂の設計は、築地本願寺や湯島聖堂を手がけた伊東忠太氏(1867~1954)によるものです。
当初は「震災記念堂」と名付けられましたが、昭和20年3月10日の東京大空襲などによる犠牲者(約105,000人)の御遺骨も併せてこの霊堂に奉安し、昭和26年9月に名称を「東京都慰霊堂」と改め、現在約163,000体の御遺骨が安置されています。毎年2回(春季-3月10日、秋季-9月1日)慰霊大法要が行われています。」と書かれています。慰霊堂は工事中でした。庭のイチョウももう少しで色付くようです。野外ギャラリーです。
何十回と訪れているのですが初めて見るものがありました。
こちらは前回も見ました。
震災記念堂に、大正12年9月1日の関東大震災の慰霊と昭和20年3月10日の東京大空襲の被災者を慰霊しています。それぞれ慰霊の日には屋台が出るので、保健所時代は毎年屋台の衛生監視で出かけていました。
当時はあまり中を見る機会がありませんでしたが、退職してから時々訪れています。