江戸名所図会めぐり、若い時はまったく興味がありませんでした。今回訪れた小野照崎神社は最初に就職した職場のすぐ近くにありました。江戸名所図会
にも出てくるような有名な神社とは知らずに
先輩の職員が神社のお祭りの話をしていましたが、聞き流していました。
★ランドマーク小野照崎神社:小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として有名な小野篁である。創祀の年代は不明だが、次のような伝承がある。篁は上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞した。仁寿2年(852)篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀した。その後、江戸時代をむかえ、寛永2年(1625)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり、当社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷した、というものである。また、一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄4年(1691)頃に遷座したのではないかともいう。
現在の社殿は慶応2年(1866)の建築で、関東大震災や東京大空襲などを免れた。また、境内には、富士浅間神社・御嶽神社・三峰神社・琴平神社・稲荷神社・織姫神社、さらには庚申塔が現存する。
例大祭は5月19日で、3年に一度、本社の神輿渡御が行われる。(台東区教育委員会掲示より)拝殿
境内にある庚申塚です。日本三庚申となっています。日本三庚申とは京都の金剛寺(八坂庚申堂)、大阪の四天王寺庚申堂、東京の入谷庚申堂だと言われているようです。
江戸名所図会の入谷庚申堂のキャプションにも「喜宝院に安ず。摂の四天王寺の青面金剛と同作の霊像となりといへり。」あるので
この青面金剛は四天王寺庚申堂のものと同作と書かれています。ただ「喜宝院に安ず」ということで喜宝院はないので入谷庚申堂は消滅しているものと思われます。
当日は逆光で塚全体が撮れませんでしたがこのようになっています。
庚申塚の前にある力石です。
江戸名所図会には載っていませんが、境内に下谷坂本富士塚があります。浅間神社には狛犬ならぬ狛猿です。
★ランドマーク下谷坂本の富士塚:この塚は模造の富士山で、文政11年(1828)の築造と考えられている。「武江年表」同年の項に、「下谷小野照崎の社地へ、石を畳みて富士山を築く」とある。 境内の”富士山建設之誌碑”によると、坂本の住人で東講先達の山本善光が、入谷の住人で東講講元の大坂屋甚助と協議して築造し、富士山浅間神社の祭神を勧請したという。 東講は富士山信仰の集団、いわゆる富士講の一つ。富士山進行は室町時代末期頃に起こり、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成された。それにともない、模造富士も多数築かれ、江戸とその近郊の富士塚は五十有余を数えるに至った。しかし、いまに伝わる塚は少ない。 ここの富士塚は高さ約5m、直径約16m。塚は富士の溶岩でおおわれ、東北側一部が欠損しているものの、原形がよく保存されている。原形保存状態が良好な塚は東京に少ないので、この塚は貴重である。昭和54年5月21日、国の重要有形民俗文化財に指定された。(台東区教育委員会)国が文化財に指定している物は、全国で4基のみである(他の3基は練馬区の江古田富士、豊島区の長崎富士、埼玉県川口市の木曽呂富士)だそうです。
普段は入れないので草が生い茂っていました。
こちらは織姫神社に稲荷神社です。
お百度石江戸名所図会では、稲荷が左手に見えるのでこちらの鳥居が正面のようです。
最初に入った鳥居の左側には境内末社として三峰神社と御嶽神社がありました。
入谷や根岸、金杉には江戸名所図会に描かれているところが多くあります。古地図(江戸切絵図)です。入谷の鬼子母神も近くにあります。