昨年旦那さんと死別した私の姉(長女)が住んでいる行田の家にお邪魔しました。家ではかわいいランちゃんが迎えて?くれました。?マークは最初はおびえて震えていました。
こちらは、少し慣れてリラックスしたところです。
家で昼食を御馳走になった後で、付近を散策することになりました。孫娘は宿題があるということで姉と一緒に留守番になりました。最初は近くの忍城址に向かいました。
★ランドマーク忍城址:「のぼうの城」で一躍有名になった城址です。関東七名城【太田城(茨城県)、宇都宮城(栃木県)、唐沢山城(栃木県)、金山城(群馬県)、前橋城(群馬県)、忍城(埼玉県)、川越城(埼玉県)】の一つに数えられました。忍城は文明年間(1469~86年)の初め頃に築城され、上杉、北条氏との戦いにも落城せず、石田三成の水攻めにも耐え、戦国の世を生き抜いた名城です。
忍城は明治維新の際に壊されましたが、忍城本丸の跡地に往時の面影を再現した忍城址(おしじょうし)が整備されています。この事業に対し、「'93さいたま景観大賞」や「都市景観大賞」が授与されています。また、忍城址内には郷土博物館が併設されています。(行田市のHPより)
石田三成の水攻めとは:天正18年(1590)年3月、豊臣秀吉は関東平定のため、そのころ関東を支配していた北条氏の拠点である小田原へ出陣しました。忍城主の成田氏は北条氏に属していたため、秀吉方の武将、石田三成によって攻められることになりました。
6月5日、三成は地形や季節を考えて水攻めを計画し、約1週間で延長28キロにもおよぶ堤を築き、利根川と荒川の水を引き入れるという大作戦をおこないました。
しかし、城が沈まなかったため、これを見た人々は城が沈まないのは浮くからだと考え、忍城は「浮き城」として、その名を轟かせました。現実には、忍城の地形がまわりよりも少し高かったため、沈まなかったと考えられます。
その後堤は切れてしまい、水攻めは失敗に終わりました。忍城の戦いは小田原城が7月6日に開城した後も続きましたが、最終的には開城して7月14日に豊臣軍に引き渡されました。
三成の築いた堤は、市内堤根地区に「石田堤」として、今も一部がのこっています。
昭和63年に復元された 忍城 御三階櫓です。
東門から出たところの橋の上から撮りました。東門です。お堀」
鐘楼です。
★ランドマーク忍城の鐘:江戸時代の忍城ゆかりの遺品として、時鐘(じしょう)があります。この鐘は、享保2年(1717)伊勢桑名藩主松平忠雅によって鋳造され、文政6年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのにともなって、忍城へ移されたものです。もともとはお城の二ノ丸にあって、時の鐘として時刻を知らせていました。
現在忍城址の鐘楼につるされた鐘は、平成4年(1992)に再造されたもので、本物は郷土博物館に展示されています。毎年大晦日の夜には、この鐘の音が除夜の鐘として、市内に響きわたります。
手前の石が城の石垣に使われていたものです。松が由来ものと思って撮りましたが手前の石の説明がありました。城内と白壁
本丸は現在の駐車場のところにあったようです。
城内では菊花展が開催されていました。階段の上では忍城おもてなし甲冑隊がパフォーマンスをしていました。
亀戸天神の菊まつりうより咲いて今咲いた。