秋晴れに誘われてリハビリサイクリングで、待望の江戸名所図会めぐりに出かけました。台東区の熱田神社から小野照崎神社なども巡りましたが、ここでは熱田神社と鷲神社を掲載します。最初は熱田神社に向かいました。熱田神社に奉納されている大太刀は台東区の有形文化財になっています。
★ランドマーク熱田神社と大太刀:本社は江戸時代初期以来、当地の鎮守であった。かつて元鳥越町にあったが(現在の鳥越二丁目あたり)、正保二年)(当地に浅草新鳥越町が成立したことにともない移転して、当地の鎮守となった。新鳥越町は山谷堀の北側、千住街道(現在の吉野通り)に沿った町である。(後の浅草吉野町)。本社は町の北端に位置していたが(現在の清川一丁目七番・八番付近))、関東大震災後の区画整理のため、昭和二年(1927)十一月」現在地に移転した。本社が所蔵する大太刀「陰陽丸」は全長三六八・五センチの長大なものである。弘化四年(1847)江戸小石川に住居する刀工、川井久幸が制作し、熱田神社に奉納した。宝刀として保存されるだけでなく、安政五年(1858)コレラ流行の時には疫病を祓うため、本大太刀が町内を巡行している。当時江戸町々では、鎮守の神輿や獅子頭が町内を巡行するなど、それぞれに疫病除け行事を行っていた。当地では、鎮守の宝刀「陰陽丸」が疫病除けに最もふさわしかったのであろう。故老は「オンヨウマル」と発音していたという。平成二十二年、台東区有形民俗文化財に登載された。
平成二十二年三月 台東区教育委員会
台東区有形文化財「大太刀(陰陽丸)」
熱田神社 平成22年3月登載
本大太刀「陰陽丸」は弘化4年(1847)、刀工川井久幸(かわいひさゆき)(1786~1868)が制作し、熱田神社に奉納したものです。以来、当社の宝刀として伝来してきました。刀身長280センチ、茎(なかご)88.5センチ。全長368.5センチの大太刀です。
川井久幸は幕臣川井久尊の長男で、江戸小石川に住居しました。剣術・槍術に長じており、30代半ばから作刀に励み、刀工として活躍した人物です。
熱田神社は浅草新鳥越(しんとりごえ)町(後の浅草吉野町)の鎮守であり、安政5年(1858)コレラ流行の時には、臨時の疫病除(えきびょうよけ)行事を行いました。疫病を祓(はら)うため、本大太刀が町内を巡行したのです。当時江戸の町々では、鎮守の神輿(みこし)や獅子頭(ししがしら)が町内を巡行するなど、それぞれに疫病除行事を行っていました。当地では、鎮守の宝刀「陰陽丸」が疫病除けに最もふさわしいと考えられたのでしょう。
のち明治22年(1889)の憲法発布式祝祭においても、大太刀は山車(だし)に仕立てられており、鎮守熱田神社の宝刀として、当地を象徴するものでした。
拝殿
古地図(江戸切絵図)では真中に囲ったところが熱田明神(熱田神社)です。ここから新吉原を通り過ぎて鷲明神(鷲神社)に向かいました、
江戸名所図会より
今の風景とだいぶ違うようです。
豊川出世稲荷神社
厳島神社
少し移動して鷲神社に向かいました。
★ランドマーク鷲神社:鷲神社は、江戸時代「鷲大明神社」と称されていたが、明治のはじめ「鷲神社」と改称された。祭神は天之日鷲命・日本武尊の二神。草創は不明である。社伝によれば、天之日鷲命の桐に、日本武尊が東国征伐の帰途、熊手をかけて戦勝を祝った。この日が十一月酉の日で、以後、この日をお祭と定めたという。
酉の市は、江戸中期より冬の到来を告げる風物詩として発展し、足立区花畑を「大鳥」、浅草を「新鳥」と称した。浅草はとくに浅草観音・新吉原・猿若町芝居小屋を控え、賑わいをみせた。一の酉、二の酉、年によって三の酉とあり、世俗に三の酉があると火事が多いと言われる。
酉の市は当初、農産物や農具の一種として実用的な熊手を売る市であった。その後、熊手は幸運や財産を「かきこむ」といわれ、縁起物として商売繁昌開運の御守として尊ばれてきた。また、八ッ頭は、人の頭になる、子宝に恵まれるといわれる。
江戸名所図会ではわたしの彩(いろ)「江戸名所図会」大人の塗り絵より
鷲大明神社祭毎年十一月酉の日に修行す。世に酉のまちといへり。この日近郷の農民家鶏(にわとり)を献ず。祭り終はるの後、 ことごとく浅草寺観音の堂前に放つを旧例とす。塗り絵にしていただくとわかりやすですね。
引用させてもらったのは正確には【私の彩(いろ)の「江戸名所図会」大人の塗り絵】からです。ということで今年は11月11日が一の酉、23日が二の酉になるようです。
境内は熊手を吊るす鉄パイプの準備ができていました。
御社殿です。
開運のおかめが飾ってあります。神社のHPをみたら「なでおかめ」というようです。
【鷲神社「なでおかめ」の云われ】
おでこをなでれば賢くなり
目をなでれば先見の明が効き
鼻をなでれば金運がつく
向かって右の頬をなでれば恋愛成就
左の頬をなでれば健康に
口をなでれば災いを防ぎ
顎(あご)から時計回りになでれば物事が丸く収まると云う
渡殿と神楽殿
句碑などは覆われていて見えませんでした。
古地図(江戸切絵図)でも前に川が流れていますが、今は埋め立てられて広い国際通りとなっています。切絵図では斜め向かいになっていますが、今は国際通りの反対側になっている大きな西徳寺に寄ってみました。山門
★ランドマーク西徳寺:寛永5年(1628年)、佛光寺門徒の聞法道場の一つとして江戸の金助町(現在の東京都文京区本郷付近)に建立されたと伝えられています。建立後50年の間に天和の大火など、江戸を襲った火災で焼け出されること三度、当時の住職・檀家の協議により竜泉(現在の東京都台東区)に移転したのは天和3年(1683年)だそうです。
徳川幕府時代、明治維新後も西徳寺は発展を続けたが、大正12年(1923年)の関東地震により本堂が全壊した。地震後に再建にとりかかり、昭和5年(1930年)に鉄筋コンクリート造という、寺院建築としては画期的な形で寺院を再建し、現在に至っています。
第17代中村勘三郎の墓があるようです。山門のことば(寺のHPより)「国境なき 南無阿弥陀仏」なかなか良いと思いました。
本堂