ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

永代橋から清洲橋(江戸名所図会めぐり)

2017年09月02日 10時12分41秒 | 江戸名所図会めぐり

深川八幡祭りで訪れた永代橋を再度散策して、江戸名所図会でまとめてみました。中央区側からみた永代橋です。錦絵では永代橋から佃島を見た風景が描かれています。歌川 国綱の江戸名所之内 永代橋の風景より

今はこのようになっています。私たちの小さいころは佃島と言っていましたが、今は月島というのでしょうか、と思って調べてみたら、この絵に見えるとことは佃島で、その先の埋立地が月島になるようです。佃島も手前のところは石川島といってたようです。

今は大川端リバーシティー21とかの開発でビル群になっています。江東区側の橋から見ています。

中央区側の橋の袂から下流を見ています。左手の水門は大横川が隅田川と合流するところです。

上流を見ると東京スカイツリーが見えます。

亀戸の自宅から永代橋に行く途中、橋の手前の江東区側に渋沢榮一宅跡がありました。永代通りの渋澤シティプレイスのところに建っています。脇を仙台掘川が走っています。

もう少し永代橋に近いところには佐久間象山砲術塾跡がありました。

橋を渡ったところには船員教育発祥の地の碑がありました。

★ランドマーク船員教育発祥の地:政府の自主的な海運政策を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎彌太郎に命じて、明治八年十一月この地に商船学校を開設させた。当初の教育は、その頃隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流の水域に、成妙丸を繋留して校舎とし全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢となった。
爾来百年、ここに端を発した商船教育の成果は、我が国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承せられている。
昭和五十年十一月  東京都中央区教育委員会

永代橋は錦絵に多く描かれています。 広重 江戸名所  永代橋佃島

広重 東都名所 永代橋深川新地

一立斎広重の東都名所 永代橋全図となっています。歌川広重初代の別名です。

江戸名所図会より  キャプション 東望す天辺海気高し/三叉口上接して滔々たり/布帆一片秋色を懸け/長風破らんと欲す万里の濤 南郭

古地図でも豊海橋の上流のところになっています。石川島と佃島の関係もよくわかります。

錦絵や図会では日本橋川の上流に架かっていますが、これは日本橋川に架かる豊海橋の上から下流に向かって撮っています。昔の橋は今より150mほど上流に架かっていたようです。のところに剥げてしまっていますが碑がありました。

★ランドマーク永代橋:永代橋が架橋されたのは元禄11年(1698年)8月であり、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりも150m程上流、(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)当時大渡し(深川の渡し)のあった場所である。隅田川で四番目に作られた橋。

「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、江戸幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある。

多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも3m以上あり、当時としては最大規模の大橋であった。橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残る。 

元禄15年(1702年)12月の赤穂浪士の吉良上野介屋敷(所在地は現墨田区両国)への討ち入りでは、討ち入り後に上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったという。

左手に架かっていたようです。日本橋側の北側の道路です。この道から橋に繋がっていたようです。日本橋川と隅田川が合流するところに立っていました。100m先にいってみました。高尾稲荷社です。

隅田川沿いを上流に向かいました。リバーゲートのツインビルの間にお化けススキ(パンパ)がありました。

さらに上流に清洲橋が見えます。

そこに向かいました。清洲橋です。国の重要文化財になっています。

★ランドマーク清洲橋:関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインである。当時世界最美の橋と呼ばれたドイツのケルン市にあったヒンデンブルグ橋(英語版、ドイツ語版)の大吊り橋をモデルにしている(その橋は第二次世界大戦で破壊された後、別の橋が再建された為、現在は吊り橋ではない)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を使用して、鋼材の断面を小さくする努力がなされた。

もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所でもある。この錦絵は広重の名所江戸百景
深川万年橋 です。万年橋から中洲の渡し越えに富士山を見ている構図のようです。清洲橋から小名木川にかかる万年橋を見ています。江戸時代の古地図には万年橋は描かれていますが、清洲橋まだ開通していません。地図の折れ目あたりに架けられたのでしょうか。

ちなみに万年橋からみた清洲橋です。いずれも深川八幡祭りの帰りに撮りました。

 

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