亀戸に1975年から住んでいますが、亀戸事件の追悼会に初めて参加しました。
場所は衛生点検でお邪魔している工場の隣にある赤門浄心寺です。
浄心寺には亀戸事件犠牲者の碑が建てられています。
(碑裏)1923年(大正12年)9月1日関東一帯を襲った大震災の混乱に乗して天皇制警察国家権力は特高警察の手によって被災者救護に献身していた南葛飾の革命的労働者9名を逮捕、亀戸署に監禁し戒厳司令部直轄軍隊に命じて虐殺した。惨殺の日時場所ならびに遺骸の所在は今なお不明である。労働者の勝利を確信しつつ権力の蛮行に斃れた表記革命戦士が心血をそそいで解放の旗をひるがえしたこの地に建碑して犠牲者の南葛魂を永遠に記念する。
1970年9月4日 亀戸虐殺事件建碑実行委員会
碑裏の下部には
犠牲者之碑誌
この犠牲者之碑を建立して23年の歳月を経た。この間研究の努力によって、中筋宇八 24も亀戸事件の犠牲者であることが立証された。当実行委員会は事件70周年記念事業のひとつとして、このことを確認し、碑にとどめる。なお、碑の改修にあたり、碑文等一部を書き改めたことを付記する。 1993年9月5日 亀戸事件追悼会実行委員会
碑の正面の下のところには
犠牲者氏名年令 川合義虎 22 加藤高春 27 北島吉蔵 20 近藤慶造 20 佐藤欣司 22 鈴木直一 24 平澤計七 34 山岸実司 20 吉村光治 24
と書かれています。
関東大震災 亀戸事件しおりには
1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生し、その混乱の中で天皇制政府は「朝鮮人、社会主義者が井戸に毒を投げ入れた」とか「暴動をおこしている」とデマ宣伝し、軍隊や警察、そしてこのデマに惑わされた「自警団」などが6千名以上の在日朝鮮人や中国人を虐殺し、無政府主義者の大杉栄夫妻と6歳の甥も憲兵隊によって殺害された。南葛地域(現、江東、墨田区)では、軍隊が、被災者救援のため活動をしていた川合義虎(日本共産青年同盟委員長)をはじめ労働組合の幹部など10名を虐殺した。これが亀戸事件である。この事件は「日本の労働運動の発祥地、拠点であった亀戸で、その革命的精神を双葉のうちにつみとろうとした、近代史上、比類をみない残虐な事件」であり、「隠された権力犯罪」(「亀戸事件」加藤文三著)である。亀戸事件犠牲者追悼実行委員会は、亀戸事件の真相と責任を追及し、1970年には、江東区亀戸にある赤門浄心寺に多くの団体、個人の協力を得て、「亀戸事件犠牲者の碑」を建て、毎年9月の第1日曜日に追悼会や学習会、現地調査などを行っている。
手すりのない階段あので中には入らず石仏像と一緒に並んで石に座っていました。石仏には宝永8年(1711)とあります。後ろには立派なヤツデの葉がありました。ずっと石に座っているのも体へだったので途中で境内を撮って歩きました。入り口に左に立っている六地蔵尊です。右側には有形民俗文化財の地蔵供養塔 念仏講在銘はどちらでしょうか。
黒猫さんがこちらを見ていました。浄土宗なので南無阿弥陀仏です。
★ランドマーク浄心寺:浄心寺は『新編武蔵風土記稿』巻之二四によれば、この寺の創立は元和元年(一六一五)で、開山鑑蓮社吟誉至山不通は寛永五年(一六二八)に亡くなったという。『浄心寺誌』によれば、江戸初期に正二位権大納言烏丸光広卿が江戸に下ったおり、鷹狩りに遊び、宝燈庵と称していたころの浄心寺に立ち寄り、不通和尚の法話に耳を傾け、その姿に心服した光広卿は朱塗りの門と、自家の菊花紋を浄心寺に与え、赤門寺と呼ばれるようになった。寺では慶長八年(一六〇三)のことと推測している。(「江東区の民俗城東編」より)
当日の様子を同じく参加していた原純子さんのfacebookより写真をお借りしました。
亀戸は江戸時代から亀戸天神社をはじめ多くの社寺仏閣があったところです。江戸時代の古地図です。