自宅の近くに江戸時代に萩寺とよばれていたお寺さんがあります。萩のシーズンなので散策しました。近くなので毎日でも行けるのですが、ブログ用に撮ってきたものをアップします。
横十間川に面している山門です。江東区の案内板があります。
★ランドマーク龍眼寺:龍眼寺は天台宗で、慈雲山無量院と号し、創建は応永2年(1395)と伝えられています。
当寺は萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には、萩を愛でる人々でにぎわう様子が描かれています。
また。境内の万治2年(1659)造立の庚申塔は、区内で確認されているもののうち最古のものです。
亀戸七福神のひとつ(布袋尊)として親しまれています。(江東区掲示より)江戸名所図会より
キャプション 庭中萩を多く栽ゑて中秋の一(いつ)奇観たり。ゆゑに俗呼んで萩寺と称せり。『万葉集』芳子(はぎ)に作り、『和名抄』鹿鳴草(はぎ)に作る。『続日本書紀』に、「仁明承和元年八月、清涼殿に内宴す。これを芳宜(はぎ)華の讌(えん)といふ」とありて、 皇朝古へより萩を愛せられしことかくのごとし
江戸時代の切絵図ではこのようになっています。
境内にはたくさんの歌碑がありますが、古いので価値があるのかなという程度でしたが、百花園でもそうでしたが風流人は歌を詠んでそれを歌碑に残したものと思うようになりました。
入り口には芭蕉の句碑があります。
つき見とも見えず露あり 庭の萩 其角
芭蕉句碑
濡れてゆく 人もおかしや 雨の萩 芭蕉
山門を入ったところに江東区の案版が二つ本尊の木像聖観音菩薩立像
江東区指定有形文化財(彫刻)
木造聖観音菩薩立像 一躯
平成12年(2000)3月27日指定
聖観音菩薩立像は龍眼寺の本尊です。像高は104cmで、一木から頭・体を木取りした後、干割れを防ぐためにそれぞれを前後に割り、内側をくり抜いて再び接合した割矧造りです。頭部は耳後ろで前後の材を矧ぎ合わせ、胴体に差し込まれています。
本像は東武に宝髻を結い、左手は臂を曲げて胸前で蓮華をとり、右手は軽く臂を曲げて下げ、蓮華座上に腰をひねって立っています。像容は顔がまるく穏やかな表情がうかがえ、着衣は浅い彫りのなだらかな起伏によって表現されており、ゆったりとしています。
本像は江東区にとっては数少ない平安時代末期から鎌倉時代初期の作と考えられ、たいへん貴重です。
平成14年(2002)3月 江東区教育委員会
江東区指定文化財の庚申塔です。万冶2年(1659年)在銘
庚申塔は庚申信仰という民間信仰に基づいて建てられたものです。庚申信仰とは、人の体内には三尸という虫が棲んでおり、60日ごとにめぐってくる庚申の夜、人々が眠っている間に体から抜け出して天に昇り、天帝にその人の扉を訴えるので寿命を縮めるといわれ、この夜は眠らず過ごし健康と長寿を願うというものです。
本庚申塔は万治2年(1659)の銘をもち、庚申塔の中でも比較的早い段階に属し、区内では最古のものです。正面上部に三つの種子が刻まれ、その下に三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)が並んでいます。銘文は三猿の下にあり、姓を持つ10組の夫婦が現世と来世の二世安楽を願って奉納したことが分かります。
龍眼寺は、江戸時代の中ごろにたくさんの萩が植えられたことから萩寺の名で親しまれ、萩の季節には多くの人々で賑いました。このあたりは江戸時代には柳島村に含まれ、庚申塔が建てられた万治2年(1659)は、柳島村の成立した所期にあたります。代々柳島村の村役人をつとめた大沢八郎右衛門と同じ姓を持つ人名が刻銘に見られることから、奉納者は柳島村の草分け的な存在であったと考えられます。また、女性が加わっていることもこの時期の庚申塔としては珍しく、大きな特徴といえます。
平成20年(2008)3月 江東区教育委員会
庚申塔は萩で覆われていました。
芭蕉句碑
濡れてゆく 人もおかしや 雨の萩 芭蕉
地蔵堂に近づいてみたら子護八起地蔵尊(ねごやおきじぞうそん)、優しいお顔の地蔵さんです。
地蔵尊のまえに句碑
森総彦句碑
青梅や 小さき息を 大切に 総彦
布袋堂です。
庭にはまだ新しい石像が置いてあります。
落合直文の和歌 萩寺の萩 おもしろし つゆの身の おくつきどころ こことさだめむ 直文
石田波郷・石塚友二 句碑 槇の空 秋押し移り ゐたりけり 波郷 たかむなの 疾迅わが背 越す日かな 友二
水盤延享2年在銘
★春明法眼之碑:河野春明ハ幕末ノ刀装金工界ニ活躍シ 古今未曽有ノ名工トシテ天下ニ知ラル 天明7年西暦1787年ニ生レ16歳ニシテ柳川直春ノ門ニ学ビ春任ト名乗リ 文化年間ニ春明ト改メル 語ヲ韶 通称ヲ忠蔵ト言フ 文政年間ニ法橋ニ叙任ジ再ニ法眼ノ位ヲ許サレル 号銘八十方翁ヲ好ンデ多用シ十方斉 十方空舎 月窓 三窓 風乎 対鷗 閑人ナレドモ用イルソノ作風ハ人物 風景 動植物ナド多種デ高彫ヲ得意トシ色絵 象嵌ヲ施シテ一風格ヲナス 春明ハ向島及ビ本所柳島ニ住シタガ 生涯ノ多クヲ遊歴ニ送リ 於北越 於伊香保 遊松島ナドト切銘シタ作品ガソノ足跡ヲ今ニトドメル
春明ノ旅ハ贅沢三昧ヲ盡シタト伝エラレナガラ ソノ死後ハ一抹ノ哀愁ヲ誘ウ 過去帳ニヨレバ旅先越後新潟デ安政四年 西暦1857年12月26日71歳デ病死 火葬ニシテ遺骨ヲ運ビ翌5年10月26日龍眼寺ノ惣墓葬ル 布施モ無ク穴銭マデ寺ガ立替タトアリ 以来秋メグリテ萩ノ花咲ク萩寺ニ春明霊ヲ慰メタ有志ノ例ヲ聞カズ
春明没120年忌ニアタリ 本来無一物ヲ身ヲ以ッテ実践シタ名工ノ江戸ッ子気質ヲ偲ビ 作品ヲ敬慕スル有志集イテ春明ノ積年ノ借銭ヲ代弁セントシテ ココニ春明法眼之碑ヲ建テ 永久ニ霊ヲ慰メントスルモノ也
昭和53年(1978)10月26日 小窪健一 謹撰
建碑発起人
小窪健一 荒井八郎 飯田一雄 長田義正 立浪日郎 朝倉万幸 池田末松 井門美昭 河端照孝 笹野大行 佐藤次喜 斉藤光興
進藤徹男 進藤久雄 高橋歳夫 福士繁雄 福田豊 益本千一郎 若山泡沫 渡辺健一 全国美術刀剣青年会 鷲見憲司 杉江雄治
本堂の前には不動明王の不動堂があります。添え護摩木が販売されてます。
★添え護摩木:
御護摩とは、他に類を見ない密教独自の尊い秘法であります。高野山の神木を護摩木として、智慧の火で五欲・四魔・煩悩を燃やし、息災・増益・敬愛・調伏を祈願し悪縁消滅・良縁招福を図る秘法を護摩供養」と申します。
一・息災護摩…災難や厄を祓い日々の生活を平穏無事に過ごすことを目的とした護摩法(家内安全・厄払い・方災除け・当病平癒・無病長寿など)
二・増益護摩…利益・繁栄・発展を得ることを目的とした護摩法(商売繁盛・事業繁栄・金銀如意など)
三・敬愛護摩…人気・信用・和合・調和を得ることを目的とした護摩法(家庭円満・交際円満・夫婦和合など)
四・調伏護摩…悪縁・因縁・障り・五欲の消滅・四魔封じを目的とした護摩法(悪縁除去・霊障消滅・悪人退治など)
以上の四通りの護摩供養の際に添えるのが「添え護摩木」であります。添え護摩木に願い事を書いて祈願すれば、一切の如意成就が図られると古来より伝えられております。
ということのようです。
本堂です。
★ランドマーク龍眼寺本堂:應永2年(1396)平安末期鎌倉時代の作(作者不明)開山良博大和尚(千葉氏の出)比叡山での修行を終え帰国の途中、柳島の辻堂に一泊、その夜観世音菩薩が夢枕に現われ「汝の守るべき観世音菩薩と村の守護神の御神体がこの床下に在る」とのお告げにより授かり、至心に祈願した、当時村には疫病が流行していたが忽ち平癒した。村人の願いにより「柳源寺」を建立し、その聖観世音菩薩を本尊とし、厄除・眼病平癒の観音様として現在でも信仰を集めている。その後現在の「龍眼寺」(時代不明)と改められた。
御神体は天祖神社として祀られた。本堂は夢殿を模した八角堂で八聖(正)堂という、八聖(正)道とは、理想の境地に達するために実践する正しい生活態度のことである。
一、正見 正しい見解 二、正思 正しい思い 三、正語 正しいことぼ 四、正業 正しい行為
五、正命 正しい生活 六、正精進 正しい努力・勤め 七、正念 正しい信念・気づかい 八、正定 正しい精神統一
螺舎一堂句碑
月や秋 あきや夜にして 十五日 螺舎一堂
百寿句碑
「春盛る梅のうしろに□の花」
横十間川沿いのところに水辺と小道が作られています。
供養碑(句碑)
ゆきし子は 永劫老いず 楠若葉 一亭
昭和48年(1973)6月4日 大沢欽治 建立
池月一陽子 句碑
遍照や 萩三百の 刈株も 一陽子
わたし彩(いろ)「江戸名所図会」大人の塗り絵」ではこんなふうに色が付けられました。今はそれほどの広い敷地ではなくなったので当時の様子を思い浮かべにくくなっています。水辺は江戸名所図会の昔を偲んで作られているようです。
夢佛庵くに□句碑
夏痩を 驚く秋の 寝覚哉 夢佛庵くに□
江東区指定有形文化財(彫刻)
六十六部廻国供養塔宝永8年在銘?
冬嶺・市町句碑
□を□や色越□□錦や萩見□ 冬嶺
露の世に□□□や萩の上 市町
法華経五千部供養塔 享保18年在銘
白い萩の花です。
龍眼寺の柳