ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

亀戸あさくさ古道、浅間神社から常光寺

2015年01月23日 23時16分45秒 | 歴史の小道

亀戸あさくさ古道を訪ねてみました。

逆井の渡しの碑です。

次は元佐倉道の碑です。

『元佐倉道跡」の道標~亀戸あさくさ古道の起終点~』江戸に向かう「元佐倉道」は「逆井の渡し」を小松川村から亀戸村に渡り、竪川通りを西に進むと、最初の分岐点「是より右 富士せんげん道」の道標(浅間神社境内保存)に出会います。道標を右に折れ、広がる田園風景を浅間神社、亀戸水神、六阿弥陀、香取神社、亀戸天神を経て浅草に至る江戸時代の古道です。

浅間神社です。近くまではたびたび訪れていましたが、神社を散策したことはありませんでしたので、今回初めて足を踏み入れてみました。由緒書きです。
その昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東夷ご征討の折、相模から上総へ船で向うとき「こんな小さな海なら、駆けて跳び上がってでも渡れる」と大言壮語し、海を渡りました。ところが海の中程までくると突然暴風が起こり、日本武尊の船は漂って渡ることが出来なくなってしまいました。その時、日本武尊に従っていた弟橘媛(オトタチバナヒメ)という媛が「これは、日本武尊のお言葉に怒った海神の仕業だ」と言い、日本武尊の身代わりに自らの身を海に投じました。すると暴風はたちどころに止み、船は無事、岸に着くことができました。後に、弟橘姫の笄(こうがい)と櫛(くし)が奥湾に漂着しました。

そのうち、笄がこの辺り高貝(こうがい)洲(す)と呼ばれていた現在の亀戸9丁目(旧神社跡)付近に漂着したと言われています。(写真は、現在の笄塚です。)
これをお聞きになった十二代景行天皇は大層愁いて、ここに笄を埋め、祠を立てて祀りました。当時の諸将が苦難の折に、この祠に参り祈願すると何事も必ず聞き届けられたとも伝えられています。大永七年、後奈良天王・室町時代(1527年)富士信仰の尤も盛んな時代に、里人たちは甘露寺元長に勧請し、霊峰富士山の御守護神・木花咲耶比売を戴き、この笄塚の上に浅間社として創立し、ご遷座を成したとされています。

現在の社殿は、昭和二十年の東京大空襲にもその難を免れ、七十数年を経て現在に至っております。近年鉄骨の神社の多い中で、稀少な木造建築ともなっています。」と書かれていました。

水盤:説明書きより「石質は安山岩(小松石)である。正面に富士山の姿が彫られ、その中央に「玉」と刻まれている。この印は、富士講の紋であったと思われ、当神社の明治期以降の石碑類の多くに刻まれている。富士山の上に「奉献」とあるから、富士講が当社に奉納したものであることがわかる。左側面の刻銘は次の通りである。石質は安山岩(小松石)である。正面に富士山の姿が彫られ、その中央に「玉」と刻まれている。この印は、富士講の紋であったと思われ、当神社の明治期以降の石碑類の多くに刻まれている。富士山の上に「奉献」とあるから、富士講が当社に奉納したものであることがわかる。左側面の刻銘は次の通りである。浅間神社は、大永七年(1527)の創立とも、近世初期の創立とも伝えられている。またこの地は、古代に日本武尊の妻、弟橘媛の笄が流れ着いた地ともいわれる。いつごろこの地に富士山が造成されたのかは不明だが、延宝七年(1679)に版行された「江戸方角安見図」の亀戸の図に、二棟の社殿を構えた「富士」の名前が見える。江戸時代の前期までには、この地に浅間神社が創祀されていたことが知られる。

庚申塔:六ッ目地蔵小屋に他の供養塔と一緒に建てられている。総高100cm。石質は安山岩(小松石)である。青面金剛の合掌している手や庚申塔正面の上部右上や、三猿の「聞か猿」の右足が欠損している。正面の刻銘は次の通りである。この庚申塔は舟型で、上部に月日、青面金剛の下に三猿があり、その両端に二鶏が刻まれている。青面金剛は六臂で合掌しており、左上の手に矛、左下の手に矢、右上の手に鏡、右下の手に弓を持っている。

富士せんげん道道標:側面には「地蔵講中 本所□ツ目 願主良歓」、左側面には「享和元酉年十月吉日」の刻銘がある。この道標は、右へ曲って浅間神社、亀戸天神社、六阿弥陀六番目の常光寺を経て浅草へ行く道を示すものであるが、この道は、すでに延宝七年(1679)の「江戸大絵図」にも見ることが出来る。

江戸大絵図です。まだ逆井の渡しについては描かれていません。

現在の六之橋(当時は六之渡し)は北詰に東向きに建っており、逆井の渡しから来る人に、これらの道を示していたと思われる。」ここから浅草までの古道があったようです。これにつられて水神宮に向かいました。昔は大きな森になっていたようです。

水神森亀戸水神宮の創建は古く、各種の文献を総合すると室町幕府十二代将軍足利義晴の治世の頃(1521~1546)と推定されます。土民が水害から免れん為の祈願とし て大和国吉野の丹生川上神社から勧請したもので、祭神は弥都波能売神(ミズハノメノカミ)という水を司る女神です。(罔象女神とも表記します)付近には鈴 木姓、田中姓の方が多くいらっしゃいますが、何れも土着の古い農家の流れをくむ方達であり亀戸の中でも特に歴史を有する地区でもあります。昭和20年3月 の大空襲の際に甚大な被害に遭いましたが昭和35年6月に再建され、現在は毎年6月第一日曜日に例祭を斎行しています。
近辺には水神小学校や水神駅、また水神通りなどがあり地域の皆さんに親しまれています。水盤

常光寺まで足を延ばしてみました。

六阿弥陀道道標 延宝7年在銘本道標は総高148センチ、塔身・基礎より構成され、二石とも石質は安山岩である。基礎は後補とみられ、花立と水鉢が施されている。塔身は駒型で、正面に「南無阿弥陀佛」、左側面に「自是右六阿弥陀道」、右側面に「延宝七巳未((ママ))年二月十五日 江戸新材木町同行六十□」((人))と陰刻があり、延宝7年(1679)2月15日、江戸新材木町(現中央区日本橋堀留町一丁目)の同行60人により建てられたものとわかる。現在、常光寺墓地北隅に置かれているが、元来は現在地と異なる場所に置かれていたと考えられる。戦前には現在の江東商業高校の北西側隅に面した常光寺の塀際にあったといわれ、その後、現在地に移されたものと思われる。

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