両国橋を渡って浅草橋方面に向かいました。両国橋の左側(下流側)を渡るとすぐに左手にのぼりの立っている道路がありました。薬研掘不動尊と書いてあるので誘われて入ってみました。通り抜けてしまいもどって隅田川方面に向かったところに不動院がありました。なかなか急な階段での登る気力がわきませんでした。
★ランドマーク薬研掘不動院:川崎大師の東京別院・薬研堀不動院は、古くから目黒、目白と並び江戸三大不動として知られ『江戸名所図会』をはじめ多くの文献に紹介されています。
鬼平犯科帳と江戸名所図会より真ん中にあるのが不動のようです。
本尊は紀伊国根来山大伝法院開山興教大師の作と伝え、天正十三年秀吉の根来攻めのとき、釈大印という僧が、葛籠に納めて逃れ、家康入国前に薬研堀に来て草庵を結んだにはじまるという。霊験ありとし人々の参詣が多かったが、天保年中、本所弥勒寺中へ移され、維新後、有縁の旧地に移り咲いて仏殿を造営し、毎月二十八日の縁日に門前賑わいを呈した。今は昔日繁盛の悌も残していない。とのことです。
古地図切絵図では不動院は書かれていませんhが薬研掘りはまだ埋め立ててありません。薬研掘りが埋め立てられるのは明治36年だそうです。薬研掘りが隅田川に注ぐところに元柳橋があったとのことです。地蔵尊と並んで聖徳太子碑がありました。
広小路に戻って柳橋に向かいました。
中央区側の案内です。関東大震災(大正12年)からの復興事業で昭和4年に作られた橋ということで、復興記念碑がありました。
★ランドマーク柳橋:神田川にかかる橋で、特別区道(愛称:柳橋通り)を通す中央区管理の橋で、南岸は中央区東日本橋2丁目、北岸は台東区柳橋1丁目となっています。
「橋は元禄11年(1698)架けられ、神田川が隅田川に合流する所で、「川口出口の橋」と呼ばれていた。江戸期は浅草橋と柳橋との間の河岸が吉原通いの猪牙舟(ちょきぶね)や様様な舟遊びの船、それらを利用.する人々と船宿や料理屋で大いに賑わった。花街化したのは辰巳芸者で有名な深川花街が寛政・天保の改革で弾圧を受け、芸者達が次第にこちらへ移ってきてからである。」とのことです。
柳橋が芸者で賑わっていたころの面影がこの橋の欄干にカンザシということで残っています。
隅田川と交わるところ
高速道路の下を通っているのが両国橋です。
神田川の浅草橋方面を見ています。
台東区側にも案内板がありました。
歌川広重の両国柳はし 錦絵で楽しむ江戸名所より
こちらは料亭でしょうか。
歌川広重 両国柳橋 錦絵で楽しむ江戸名所より
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