ランドマーク探しⅢ

2012年から出張先での風景や社寺仏閣、由緒を訪ねて記録してきました。2016年からは自分の足で散策し、記録しています。

鬼平情景散策

2016年04月17日 21時44分43秒 | 近郊散策

リハビリあまり歩けないので、近場を自転車で散策しました。

鬼平情景散策がまだ残っているので行ってみました。長谷川平蔵の旧邸の所では幟が立っていました。だいぶ痛んでいました。何時からたてているのでしょうか。

【高札14】長谷川平蔵の旧邸(墨田区緑4-12-7)
「鬼平」こと平蔵が27歳のときまで暮らしていた屋敷のあった場所です。実父の宣雄が目黒行人坂の下手人を捕らえた手柄により京都町奉行に出世し、長谷川家はこの地を去りました。

こちらは小さな公園の片隅にありました。

【高札13】相模の彦十の家(墨田区亀沢4-14-6)
彦十は本所松井町の「岡場所」に巣食う香具師あがりの無類者。若かりし平蔵が、放蕩無類の暮らしを送っていた頃からの取り巻きの1人です。密偵に転じると、その働きは目を見張るものがありました。

次の場所に行くのがちょっと大変でした。途中にこんな所がありました。いつのまにか江東区に入っていました。

立札の下はタンポポでした。

昔の二つ目通り「清澄通り」を渡ると角にありました。

【高札16】茶店笹や(墨田区千歳3-5-8)
弥勒寺の門前にあり、平蔵が放蕩無類の日々を送り「本所の銕」と呼ばれていた頃をよく知るお熊婆さんのお店。火盗改の長官になってからは出先のような役割を担い、多くの作品に登場します。

次もなかなか見つかりませんでした。

というのもマンションの玄関にありました。

【高札15】煙草屋・壺屋(墨田区両国4-4-5)
大盗・蓑火の喜之助の下で修行した盗賊・大滝の五郎蔵は捕縛された後、密偵となり、義父・舟形の宗平とこの店を始めました。後に夫婦となった女密偵のおまさも同居。多くの作品に登場します。

両国まで来てしまったので、ここも見て見ました。吉良邸跡です。

一般社団法人 墨田区観光協会のPHより「吉良邸跡(本所松坂町公園):吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西733間(約134m)、南北は34間(約63m)あり、坪数2,550坪(約8,400㎡)と諸書に記されています。吉良上野介が近藤登之介の屋敷跡を拝領したのが元禄14年(1701)9月3日、義士の討入りがあって没収されたのが同16年(1703)2月4日ですから、実際に住んだのは1年半に満たない短期間でした。本所松坂町公園は昭和9年に地元両国三丁目町会有志が発起人となって邸内の「吉良の首洗いの井戸」を中心に土地を購入、同年3月の東京都に寄付されました。」とあります。

次に向かったのは東京都慰霊堂のある横網町公園です。

東京都慰霊堂は、大正12年(1923)9月1日に発生した、関東大震災による遭難者(約58,000人)の御遺骨を納めるための霊堂として、東京市内で最も被害の大きかった被服廠跡(現在東京都横網町公園)に昭和5年に建てられました。慰霊堂の設計は、築地本願寺や湯島聖堂を手がけた伊東忠太氏(1867~1954)によるものです。

当初は「震災記念堂」と名付けられましたが、昭和20年3月10日の東京大空襲などによる犠牲者(約105,000人)の御遺骨も併せてこの霊堂に奉安し、昭和26年9月に名称を「東京都慰霊堂」と改め、現在約163,000体の御遺骨が安置されています。

横網公園の日本庭園です。:慰霊堂の北側約700坪(約2300㎡)の地域は、林泉式日本庭園としています。これは震災時、清澄庭園や安田庭園など都内の庭園が、人命の保護に役立ったことを教訓として計画されたものです。当初の設計は造庭家 平山勝蔵氏(1899~1990)で、後に東京農大教授となられ水禽窟の研究で有名です。

日本庭園から見た東京スカイツリーです。

団地に戻ると牡丹が咲いていました。

写真を撮っていない鬼平情景の高札はあと二カ所になりました。

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